ルートヴィヒ (ナッサウ=ザールブリュッケン侯)
ナッサウ=ザールブリュッケン侯ルートヴィヒ(ドイツ語:Ludwig, Fürst von Nassau-Saarbrücken, 1745年1月3日 - 1794年3月2日)は、ナッサウ=ザールブリュッケン侯(在位:1768年 - 1794年)。フランス革命軍に領地を占領された。
ルートヴィヒ Ludwig | |
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ナッサウ=ザールブリュッケン侯 | |
在位 | 1768年 - 1794年 |
出生 |
1745年1月3日 神聖ローマ帝国 ナッサウ=ザールブリュッケン侯領、ザールブリュッケン |
死去 |
1794年3月2日(49歳没) 神聖ローマ帝国 アシャッフェンブルク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ナッサウ=ウージンゲン侯領、ウージンゲン → ザールブリュッケン |
配偶者 | ヴィルヘルミーネ・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット |
カタリーナ・ケスト | |
家名 | ナッサウ家 |
父親 | ナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒ |
母親 | ゾフィー・クリスティーネ・フォン・エアバッハ=エアバッハ |
生涯
編集ルートヴィヒは、ナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒとその妃ゾフィー・クリスティーネの第2子、長男として生まれた。母はエアバッハ=エアバッハ伯ゲオルク・ヴィルヘルムの長女で、フランツ1世の異母姉であり、叔父フランツ1世は甥にあたるルートヴィヒより10歳近く年下であった。父と同じく、ルートヴィヒはストラスブール大学で教育を受けた。グランドツアーとして1759年から1766年にかけてイギリス、フランス、ドイツ、オランダを回った。
1768年に父が死去した後、ルートヴィヒはナッサウ=ザールブリュッケンの統治を引き継いだ。ルートヴィヒは主に経済政策を継続したが、緊縮財政政策として1769年から1777年までユーゲンハイムの領主権をナッサウ=ウージンゲン侯に担保として差し出した。1770年には皇帝ヨーゼフ2世に債務償還委員会の設立を申請したが、この委員会は1782年に解散した。宮廷で倹約を強いられたルートヴィヒは、ザールブリュッケンの小さな狩猟館に拠点を移した。
倹約政策にもかかわらず、ルートヴィヒは建築に積極的に取り組み続け、1769年にマルシュタットにルートヴィヒスベルク宮殿と庭園を建設させた。また、父がフリードリヒ・ヨアヒム・シュテンゲルの指揮下で着工したルートヴィヒ教会(ザールブリュッケン)を1775年に完成させた。啓蒙絶対主義の統治者として、啓蒙主義の精神にのっとり拷問を廃止するなど、農業、林業、学校制度、訴訟法など、数多くの内部改革を実施した。また、フリーメイソンであり、ザールブリュッケンの聖ハインリヒロッジのメンバーでもあった。
1789年にディリンゲン領を獲得し、ルイ16世からディリンゲン公 (duc de Dillingen) に任ぜられた。この称号は、妻とその子供たちにも同様に適用され[1]、ディリンゲン伯の称号とは区別される。
1793年5月13日、健康を害していたルートヴィヒは、神聖ローマ帝国に侵攻してきたフランス革命軍から逃れるため、ザールブリュッケンからアシャッフェンブルクに亡命した[2]。この日、ザールブリュッケンにおける何世紀にもわたる統治は事実上終焉した。ルートヴィヒは1794年にアシャッフェンブルクで死去し、遺体はウージンゲンの城内教会に埋葬された。
ルートヴィヒの遺骨は1995年11月23日にザールブリュッケンの城内教会に改葬された。
結婚と子女
編集1766年10月30日、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ヨハン・フリードリヒの娘ヴィルヘルミーネ・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット(1751年 - 1780年)とシュヴァルツブルク城で結婚した。結婚生活はうまくいかず、ヴィルヘルミーネはハルベルクのモンプレジール城に引きこもり、長男を育てた。
- ハインリヒ・ルートヴィヒ(1768年 - 1797年) - ナッサウ=ザールブリュッケン侯
愛妾であったフリーデリケ・アマーリエ・フォン・ドルスベルク男爵夫人(本名:フリーデリケ・アマーリエ・デルン、1753年3月12日 - 1802年4月12日)は、1770年9月25日付の貴族叙任状により、インゲルハイム伯ヨハン・フィリップ[3]より貴族に列せられた。彼女は中流階級の出身であった。フリーデリケ・アマーリエの父、宮廷監督官ゲオルク・アンドレアス・デルン(1714年 - 1798年)は教区牧師の息子で、同じ名前の叔父(1692年 - 1743年)はラウターバッハのゲルツ伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュリッツと呼ばれた)の専属医師であり、ヨハン・ユストゥス・メルクの義父であった[4]。母はマリア・ズザンネ・ユリアーネ(旧姓ホイスナー、1706年 - 1784年)である[5]。1771年、ナッサウ=ザールブリュッケンの宮廷評議員ゲオルク・アンドレアス・デルンは、未亡人ゾフィー・カロリーナ・フォン・ショレンベルクからハッセル村を購入した[6]。古い文献によると、ルートヴィヒはゲオルク・アンドレアス・デルンの娘のドルスベルク男爵夫人と貴賤結婚し[7]、間に2人の子供をもうけた。
- フレデリカ・ルイーザ・フォン・ドルスベルク(1771年2月18日生) - 1797年にフランソワ・ルクレール・ダルテヴィルと結婚
- ルートヴィヒ・カール・フィリップ・フォン・ドルスベルク(1774年2月23日 - 1871年1月10日)[8] - 1829年6月22日のザールブリュッケンへの提出書類によると、プロイセン・ライン州の貴族名簿に貴族階級115番として登録された[7]。
ルートヴィヒはその後、ドルスベルク男爵夫人の若い侍女に恋をし、貴賤結婚した。しかし、ドルスベルク男爵夫人を放っておいたわけではなく、1774年にドルスベルク男爵夫人を森林長官ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・マルティッツ(1705年 - 1760年)の息子カール・ヨハン・フランツと結婚させ[9]、マルティッツを侍従長(Hofmarschall)に任じた。マルティッツ・パビリオンはかつてマルティッツの所有であった。ドルスベルク男爵夫人は、ルートヴィヒから補償としてさらに9万ターラーを受け取った[10]。ドルスベルク男爵夫人はカール・ヨハン・フランツ・フォン・マルティッツ(1746年 - 1794年)との間に6人の娘と2人の息子をもうけた。
1774年9月1日、ルートヴィヒはドルスベルク男爵夫人フリーデリケの侍女カタリーナ・ケストと貴賤結婚した。この結婚で6子が生まれた。
- ルートヴィヒ・アルブレヒト(1775年 - 1784年)
- ルートヴィヒ・カール(1776年 - 1799年) - オットヴァイラー伯、「ディリンゲン公カール、帝国軍大尉オットヴァイラー伯」[11]
- ルイーゼ(1778年 - 1855年) - オットヴァイラー伯爵夫人。1802年にベルリンでオペラ歌手アントン・ヨーゼフ・フィッシャー (1780年 - 1862年)と結婚
- ハインリヒ(1779年 - 1781年)
- ルートヴィヒ(1785年 - 1796年)
- ルイーゼ・カタリーナ(1786年 - 1818年) - オットヴァイラー伯爵夫人、1810年9月25日にハイデルベルク近郊のマウアーで牧師ハインリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルミ(1786年 - 1860年)と結婚
妃ヴィルヘルミーネ・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタットの死から7年後の1787年2月28日に、ルートヴィヒはカタリーナと正式に結婚した。カタリーナは農民の出身であったため、ルートヴィヒは身分の差を縮めるためにカタリーナをオットヴァイラー伯爵夫人に昇格させ、ディリンゲンの統治権を与え、ナッサウ家の抵抗に負けずに公妃とした。こうして、ルートヴィヒの最後の嫡出子として末子アドルフが誕生した。アドルフは長兄のハインリヒ・ルートヴィヒが亡くなった15年後に死去した。
- アドルフ(1789年 - 1812年) - オットヴァイラー伯
脚注
編集- ^ Gisela Meyer-Franck: Lauter kleine Leute: die Geschichte einer leibeigenen Familie. Zweites Buch: Sophia Wunn. 2008. Kapitel Feine Verwandtschaft mit unfeinem Ruf - Die Fürstin von Dillingen, pp. 187–198, here p. 194.
- ^ Stefan Heinlein (2019). Wilhelm Heinrich von Nassau-Saarbrücken und seine Vision vom Himmlischen Jerusalem. arthistoricum.net, Universitätsbibliothek Heidelberg. p. 64. doi:10.11588/arthistoricum.444. ISBN 978-3-947449-38-5
- ^ インゲルハイム伯カール・フィリップの父
- ^ „Merck, Johann Justus“, in: Hessische Biografie (Stand: 15. April 2021)
- ^ Dorsberg Friederike Amalie von in der Datenbank Saarland Biografien
- ^ Landesarchiv Speyer Bestand C2 Nr. 61: kleine Adelherr. Urkunde Nr. 4
- ^ a b Ernst Heinrich Kneschke (ed.): Neues allgemeines deutsches Adels-Lexicon. Band 2, Voigt, Leipzig 1860, p. 555.
- ^ Dorsberg Ludwig Carl Philipp von in der Datenbank Saarland Biografien; Karl August Schleiden: Illustrierte Geschichte der Stadt Saarbrücken. Dillingen an der Saar 2009, p. 192.
- ^ „Maltitz, Georg Wilhelm von“, in: Hessische Biografie (Stand: 15. April 2021)
- ^ Stefan Heinlein: Wilhelm Heinrich von Nassau-Saarbrücken und seine Vision vom Himmlischen Jerusalem – Ein Held in den Künsten des Friedens – Dem Fürsten zu seinem 300. Geburtstag. V. Fürst Wilhelm Heinrich von Nassau-Saarbrücken – die Geschichte seiner Residenzstadt und die Familie des Fürsten, Heidelberg 2019, p. 96.
- ^ Historisch-genealogischer Kalender: auf d. Gemein-Jahr, 1796, p. 8.
参考文献
編集- Albert Ruppersberg: Geschichte der Grafschaft Saarbrücken. Band 2, 2. Auflage. Saarbrücken 1910, pp. 295–372. (Nachdruck: St. Ingbert 1979)
- Kurt Hoppstädter, Hans-Walter Herrmann: Geschichtliche Landeskunde des Saarlandes. Vom Faustkeil zum Förderturm. Saarbrücken 1960. (zur Freimaurerei p. 395 u. 491)
外部リンク
編集- Christel Bernard: Die Bestattung des Fürsten Ludwig von Nassau-Saarbrücken
- Nassau-Saarbrücken Ludwig von in der Datenbank Saarland Biografien
- Dorsberg Friederike Amalie von in der Datenbank Saarland Biografien
- Dorsberg Kinder
- Kest Katharina in der Datenbank Saarland Biografien
- Nassau-Saarbrücken, Ludwig Fürst von. Hessische Biografie. (Stand: 3. Januar 2021). In: Landesgeschichtliches Informationssystem Hessen (LAGIS).
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