ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)

初代リットン伯爵エドワード・ロバート・ブルワー=リットン: Edward Robert Lytton Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton, GCB, GCSI, GCIE, PC1831年11月8日 - 1891年11月24日)は、イギリスの外交官、政治家、貴族。

初代リットン伯爵
ロバート・ブルワー=リットン
Robert Bulwer-Lytton
1st Earl of Lytton
生年月日 1831年6月21日
没年月日 (1891-11-24) 1891年11月24日(60歳没)
出身校 ボン大学
称号 初代リットン伯爵、第2代リットン男爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、スター・オブ・インディア勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、枢密顧問官(PC)
配偶者 エディス

在任期間 1876年4月12日 - 1880年6月8日[1]
女帝 ヴィクトリア

在任期間 1887年11月1日 - 1891年11月24日[2]

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1880年4月28日 - 1891年11月24日[3]
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第2次ベンジャミン・ディズレーリ内閣期にインド総督を務めた。在任中、第二次アフガン戦争を起こしてアフガニスタンをイギリスの保護国と為した。リットン調査団の団長ヴィクター・ブルワー=リットンは息子である。

経歴 編集

1831年11月8日に初代リットン男爵エドワード・ブルワー=リットンとその妻ロジーナの息子として生まれる[4]

ハーロー校を経てドイツボン大学へ進学した[4]。外交官となるが、インド総督就任までは駐リスボン公使など二級の外交官職に留まっていた[5]ボヘミアンな詩人でもあった[6]。1873年にリットン男爵位を継承した[4]

第2次ディズレーリ内閣(1874年 - 1880年)が発足すると、政府とインド総督ノースブルック伯爵の対立が深まり、1876年にノースブルック卿は辞職した。その後任としてリットン卿がインド総督に抜擢された。この人事はリットン卿の父がディズレーリと親しい間柄だったこと、またインド担当大臣ソールズベリー侯爵とリットン家がハートフォードシャーで隣人関係にあるというコネによるものだった[5]

就任早々にマドラスボンベイで大飢饉があり、500万人のインド人が餓死した。リットン卿は土木事業による雇用創出を図って餓死者を減らそうとしたが、英領インド帝国政府の財政状態が芳しくなかったため、効果的にはできなかった。それでも飢饉対策法の制定によってその後の飢饉対策の指針を定めたことは大きな功績だった[7]

 
1877年のヴィクトリア女帝即位式(ダルバール英語版)を描いた絵画。

1877年には、ヴィクトリア女王インド女帝即位式(ダルバール英語版)を女王の名代としてデリーで挙行することになり、インド各地の藩王や大地主を招いて行ったが、大飢饉の最中での式典となったのでインド人から恨みを買ったという[8]

ロシア帝国南下政策を前にアフガニスタンがロシアに支配されることを恐れたディズレーリは、カーブルヘラートにイギリス人外交官を置くことをアフガン王に認めさせるようリットン卿に訓令していた。ノースブルック卿と対照的にリットン卿は、自分がディズレーリとソールズベリー卿の代理人であることを公言していたため、その意を汲んで対アフガン強硬政策を推し進めた[9]

リットン卿はイギリス外交官をカーブルに置くようアフガン王シール・アリー・ハーンに求めたが、シール王はイギリスを刺激しないよう丁重に、しかし断固として断り続けた。しばらくの間はこのような押し問答の小康状態が続いたが、1878年夏にロシアがストリアトフ将軍を長とする使節団をアフガンに派遣し、ロシア軍をアフガン国内に進駐させるようシール王に強要したことで情勢は急転した。これに激怒したリットン卿は本国の意向をも無視して、対ロシア・対アフガン強硬策を取り、英国使節団を受け入れるようシール王に改めて要求し、回答を待たずに使節団をアフガンに派遣したが、入国を拒否された[10]

これを受けて1878年11月にアフガンに宣戦布告した。ロシア軍は動かず、イギリス・インド軍は早々にカーブル占領とシール王追放に成功した。ヤアクーブ・ハーンを新王に擁立し、1879年5月には彼との間にアフガンを保護国化する条約を締結した。これによりイギリスはアフガンの外交権を完全に掌握した[11]。しかしこの後、アフガン人の間で反英蜂起が多発し、その鎮圧のために英領インド帝国政府はかなりの人的・財政的犠牲を強いられた。その件で本国でのリットン卿批判が高まっていき、1880年3月に自由党のウィリアム・グラッドストンが首相に就任すると、リットン卿は本国に召還されるに至った[12]

しかし帰国後には厚遇され、リットン伯爵位を与えられた[12]

1887年11月から死去する1891年11月まで駐フランス大使を務めた[2]。フランス人からは好意を持たれる大使だったという。それについてリットン卿は「私はインドに自分の人生を捧げた。しかし皆が私を批判した。私はここでは何もしていないのに、褒めそやされる」と皮肉っていた[13]

栄典 編集

 
1876年3月18日の『バニティ・フェア』誌に描かれたリットン卿。

爵位/準男爵位 編集

1873年1月18日の父エドワード・ブルワー=リットンの死去により以下の爵位を継承した[4][14]

1880年4月28日に以下の爵位を新規に叙される[4][14]

  • ダービー州におけるリットンの初代リットン伯爵(1st Earl of Lytton, of Lytton in the County of Derby)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)
  • ハートフォード州におけるネブワースの初代ネブワース子爵(1st Viscount Knebworth, of Knebworth in the County of Hertford)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

勲章 編集

その他 編集

家族 編集

 
妻エディス

1864年のエディス・ヴィリーズと結婚し、以下の7子を儲ける[4]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ 秦(2001) p.101
  2. ^ a b 秦(2001) p.521
  3. ^ UK Parliament. “Mr Edward Bulwer-Lytton” (英語). HANSARD 1803–2005. 2013年12月26日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Edward Robert Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton” (英語). thepeerage.com. 2013年12月26日閲覧。
  5. ^ a b 浜渦(1999) p.128
  6. ^ 浜渦(1999) p.228
  7. ^ 浜渦(1999) p.131-132
  8. ^ 浜渦(1999) p.132
  9. ^ 浜渦(1999) p.126/128
  10. ^ ユアンズ(2002) p.112-114
  11. ^ 浜渦(1999) p.130
  12. ^ a b 浜渦(1999) p.131
  13. ^ 浜渦(1999) p.133
  14. ^ a b Heraldic Media Limited. “Lytton, Earl of (UK, 1880)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年7月1日閲覧。

参考文献 編集

  • 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370 
  • マーティン・ユアンズ 著、柳沢圭子海輪由香子長尾絵衣子家本清美 訳、金子民雄 編『アフガニスタンの歴史 旧石器時代から現在まで』明石書店、2002年。ISBN 978-4750316109 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 

外部リンク 編集

官職
先代
初代ノースブルック伯爵
  インド副王兼総督
1876年1880年
次代
初代リポン侯爵
外交職
先代
初代ライオンズ子爵英語版
  在フランスイギリス大使
1887年1891年
次代
初代ダファリン・アンド・エヴァ侯爵
学職
先代
エドムンド・ロー・ラシントン英語版
グラスゴー大学学長英語版
1887年1890年
次代
アーサー・バルフォア
イギリスの爵位
新設 初代リットン伯爵
1880年1891年
次代
ヴィクター
先代
エドワード
第2代リットン男爵
1873年1891年