ワーシトあるいはワースィトアラビア語: واسط‎, ラテン文字転写Wāsiṭ)は、中世イラクティグリス川中流域に存在していた軍事・商業都市である。ウマイヤ朝時代に、イラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版によって築かれた。軍事、交通の要衝として栄えたが、ティグリス川の流路が変わると衰退し、姿を消した[1]

Japanese Map symbol (Historical site-Place of scenic beauty-Natural monument-Protected animal plant).svg ワーシト
واسط
مدينة واسط الاثرية.jpg
ワーシトのマドラサの門のものとみられる遺構
ワーシトの位置(イラク内)
ワーシト
ワーシトの位置
所在地 イラクの旗 イラク ワーシト県
座標 北緯32度11分20.8秒 東経46度16分54.2秒 / 北緯32.189111度 東経46.281722度 / 32.189111; 46.281722座標: 北緯32度11分20.8秒 東経46度16分54.2秒 / 北緯32.189111度 東経46.281722度 / 32.189111; 46.281722
歴史
建設者 ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版

位置編集

ワーシトは、イラク東部のワーシト県の中南部、県都クートから南東におよそ54kmの位置にある[2]

歴史編集

ワーシトは、バスラクーファに次ぐイラクで3番目に築かれたムスリム都市で、ウマイヤ朝のアブドゥルマリクにイラク総督に任じられたハッジャージュ・ブン・ユースフによって、恐らく西暦702年(ヒジュラ紀元83年)に築かれた[3][1]。ハッジャージュは、ウマイヤ朝の支配に抵抗するアラブ戦士への抑えとして、バスラ、クーファ、そしてペルシアアフワーズからほぼ等距離にあるティグリス川畔に、シリア戦士が駐留する軍営都市を置くことを決め、バスラとクーファの中間に位置することから、「中間の街」を意味する「ワーシト」という名前が付けられた[3][4]。ハッジャージュはこの地にまず、大モスクとそれに隣接する総督の宮殿を建設、都市はティグリス川に面していない三方を壁で囲って、6ヶ所の出入り口には全て門を設け、都市への出入りを厳重に管理した。ワーシトの建設にあたってハッジャージュは、周辺の町や村を数多く破壊し、その建材を利用したといわれる[4][5]

ハッジャージュの死後も、ワーシトの街はイラクにおけるイスラム王朝の最大拠点となるまで発展を続け、ウマイヤ朝期を通じて、イラクにおける最重要都市であった[4]

ウマイヤ朝に替わって、アッバース朝がイラクの支配者となり、バグダードが建設されて首都となると、ワーシト市壁の門は撤去されてバグダードへ移設されるなどして、政治的な地位には陰りがみえはじめたが、軍事上は変わらず要衝であり続けた。また、商業都市や学術都市としては繁栄を続けた。モンゴル帝国のイラク征服の際には大規模な略奪や虐殺が行われ、ティムールの征西に際しても多くの建物が破壊されたが、都市は維持し続けられた[4][1]

しかし、ティグリス川は徐々に水量を減らし、15世紀以降には流路も変化して、ワーシトはティグリス川から遠ざかる。17世紀には、トルコ地理学者がワーシトについて、砂漠の中にたたずむ、と記している。ティグリス川の恵みを失うことで、ワーシトや周辺の町村は衰退し、18世紀の始めには完全に無人となり、都市としては消滅した[4][1]

特徴編集

ワーシトが築かれた場所は、7世紀の大洪水で流路が変化したティグリス川の西岸で、対岸はカスカル(カシュカル)英語版という都市の支配地域であった。ワーシトは、「黒い土地」を意味するサワード英語版というイラク南部に広がる肥沃な沖積平野の東部に位置し、ハッジャージュが灌漑や開墾を奨励したこともあって、周囲に豊かな農地が広がった。ワーシト周辺での農作物の収穫は、他都市の飢饉に備えた備蓄にもあてられたという[3]。ティグリス川に面し、イラク各地へ延びる街道網の中核でもあったことから、ワーシトは造船基地、商業拠点としても発展した[1]。多くの隊商宿が店を構え、旅人が行き交った[5][4]。ワーシトは美しい都市で、中心のモスクは200ヤード四方、隣接する総督の宮殿は400ヤード四方程の大きさがあり、宮殿の屋根にはいわゆる「緑のドーム英語版」が設えられ、25km離れた場所からもみえたという[5]。このモスクや宮殿は、アッバース朝のカリフマンスールがバグダードを建設する際に手本にしたといわれる[4]。市壁は高さ2m、厚さが4.5mあり、外側を堀がとり巻いていた。市内は4本の大通りが貫き、道幅は8ヤード程あったという[5]

ワーシトは、学問の一大拠点でもあった。バグダードとメッカに同名のものがあるシャラビヤ・マドラサを抱え、多くの学者が活動した[4][5]ハティーブ・バグダーディー英語版イブン・ジャウズィー英語版イブン・アスィールなどが、ワーシトに居たとされる。また、イブン・バットゥータは、ワーシトでは多くの学者がクルアーンを深く学び流麗に読む、と記し、クルアーンを学ぶために各地からワーシトに人が集っていたことを伝えている[4]

現在編集

ワーシト跡は、長らく砂漠のただ中に放置されてきたため、人の手による破壊は免れているが、風化による損耗は目立つ。1936年から1942年にかけてと、1985年に調査隊が発掘調査に入り、マドラサの門と思われる建造物や墓地、モスクの遺構などを確認している。地上に建っている建造物は、摩耗への対処として部分的に保護がされているが、包括的な保全事業は行われていない[2]

2002年7月7日、ワーシトは世界文化遺産の暫定一覧に加えられている[2]

出典編集

  1. ^ a b c d e The Editors of Encyclopaedia Britannica (1998年7月20日). “Wāsiṭ”. Britannica. Encyclopædia Britannica, Inc.. 2020年11月5日閲覧。
  2. ^ a b c Wasit”. World Heritage Centre. UNESCO. 2020年11月5日閲覧。
  3. ^ a b c Adamo, Nasrat; Al-Ansari, Nadhir (2020), “The first Century of Islam and the Question of Land and its Cultivation (636-750 AD)”, Journal of Earth Sciences and Geotechnical Engineering 10 (3): 137-158, ISSN 1792-9040 
  4. ^ a b c d e f g h i Oseni, Z. I. (1988), “An examination of al-Ḥajjāj b. Yūsuf al-Thaqafī's major policies”, Islamic Studies 27 (4): 317-327, https://www.jstor.org/stable/20839912 
  5. ^ a b c d e Al-Taie, Entidhar; Al-Ansari, Nadhir; Knutsson, Sven (2012), “Materials and the Style of Buildings used in Iraq during the Islamic period”, Journal of Earth Sciences and Geotechnical Engineering 2 (2): 69-97, ISSN 1792-9040 

関連文献編集

外部リンク編集