三宅 康雄(みやけ やすお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名三河国田原藩2代藩主。田原藩三宅家5代。官位従五位下出羽守備前守

 
三宅康雄
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治2年10月29日1659年12月13日
死没 享保11年10月4日1726年10月28日
改名 六良太良(幼名)、康雄
別名 藤左衛門、襖右衛門(通称)、康歓(別名)
戒名 道巌院殿源光俊明大居士
墓所 愛知県田原市北番場の霊巌寺
官位 従五位下出羽守備前守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
三河田原藩
氏族 三宅氏
父母 父:三宅康勝、母:松平正綱娘・法秀院
兄弟 於松、康雄、於奈与、隼人
松平近陳の娘・梅休院
襖右衛門、康徳松平近貞、於万
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生涯

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万治2年(1659年)10月29日、挙母藩2代藩主(後に田原藩初代藩主)三宅康勝の長男として誕生した。延宝2年(1674年)12月27日、従五位下・出羽守に叙位・任官する。貞享4年(1687年)、父の死去により家督を継いだ。

元禄2年(1689年)6月、江戸城一橋門番に任じられ、元禄6年(1693年)9月に駿府城番となる。元禄9年(1696年)6月に江戸城馬場先門番となり、9月に日光祭祀奉行、10月に奥詰、11月に5代将軍・徳川綱吉付の小姓に任じられ、元禄12年(1699年)3月28日には奏者番に任じられた。元禄13年(1700年)に水戸藩前藩主徳川光圀が死去すると、幕府の上使として水戸に赴いている。

宝永元年(1704年)10月1日に寺社奉行に任じられる。藩政では凶作や暴風雨が相次いで財政が苦しくなり、宝永3年(1706年)から家臣の知行削減を行なっている。正徳5年(1715年)6月に江戸城竹橋門番、享保2年(1717年)6月には江戸城田安門番を務めた。

享保11年(1726年)10月4日に死去した。享年68。跡を次男の康徳が継いだ。

系譜

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父母

正室

子女

  • 襖右衛門(長男)
  • 三宅康徳(次男)生母は梅休院(正室)
  • 松平近貞[1](三男)生母は梅休院(正室)
  • 於万


脚注

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  1. ^ 松平近禎の婿養子