三浦貞勝
三浦 貞勝(みうら さだかつ)は、戦国時代の武将。美作国高田城主。通称は孫九郎、遠江守[1]。父は三浦貞久[1]。弟に貞広。子に桃寿丸[1]。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文12年(1543年) |
死没 | 永禄7年12月15日(1565年1月17日) |
別名 | 通称:孫九郎[1] |
戒名 | 称名院殿真月宗金[1] |
官位 | 遠江守[1] |
氏族 | 美作三浦氏 |
父母 | 父:三浦貞久[1] |
兄弟 | 貞勝、貞広 |
妻 | 円融院 |
子 | 桃寿丸[1] |
生涯
編集天文12年(1543年)、美作国の武将・三浦貞久の子として誕生。
天文17年(1548年)、父・貞久が死去すると三浦氏家臣団に擁立され当主となったが、これを好機と捉えた尼子氏家臣・宇山久信に攻められ高田城を奪われる。永禄2年(1559年)2月、尼子氏が毛利氏の侵攻を受けている隙を付いて高田城を奪還し旧領を回復する。以降浦上宗景に与同したとみられるが、三村家親の調略により切腹に追い込まれた。この時に落ち延びさせた妻(円融院)は後に宇喜多直家の妻となった(「高田城主次第」)。
しかし、これらを証明する当時の文書は見られず、当時の尼子氏との遣り取りで永禄年間に高田城を奪回した形跡も無ければ、むしろ毛利氏に従っていた三村氏からの攻撃を受けるまでに既に尼子氏の居城である月山富田城へと重臣牧尚春が逃亡していることも確認されており、上記を記した史料は史実とは異なっている。
自刃は永禄8年12月とする記録(「高田城主次第」『作陽誌』)や[1]、より具体的な永禄7年(1564年)12月15日とする説(三浦貞勝墓碑ほか)がある。享年22。法名は称名院殿真月宗金[1](宗全とも)(『作陽誌』)。
脚注
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。