三淵乾太郎
日本の裁判官 (1906-1985)
三淵 乾太郎(みぶち けんたろう、1906年〈明治39年〉12月3日[1] - 1985年〈昭和60年〉8月22日[2])は、日本の裁判官。初代最高裁長官三淵忠彦の長男であり、千代田生命保険社長の兄であり、初期の女性法曹であった三淵嘉子の後夫であった。正六位[3]。
みぶち けんたろう 三淵 乾太郎 | |
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生誕 |
1906年12月3日 日本・福島県会津若松市新横町 |
死没 |
1985年8月22日(78歳没) 日本・東京都新宿区河田町 |
住居 | 埼玉県浦和市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 判事 |
配偶者 |
三淵祥子 ( - 1955年 死別) 三淵嘉子 (1956年 - 1984年 死別) |
親 | 父:三淵忠彦 |
親戚 | 三淵震三郎、三淵多摩、石渡慎五郎(多摩夫)、反町たい(震三郎妻)、白仁武、浜口檐、近藤廉平、反町茂作(兄弟の婚族の親戚)。 |
来歴
編集1906年12月3日、後の初代最高裁長官・三淵忠彦の長男として生まれる。1930年、高等試験司法科に合格した[4]。1931年に東京帝国大学法学部を卒業して司法省に入省した(司法官試補)。1932年、東京地方裁判所の予審判事となる。1935年、東京民事地方裁判所判事に転じる。1941年、総力戦研究所第一期研究生として司法官では唯一選抜され入所[5]、第1回総力戦机上演習模擬内閣において司法大臣兼法制局長官を務めた。1942年に司法事務官に補され、1944年に領事として北京に滞在した[6]。戦後、高等裁判所裁判官及び最高裁判所調査官に着任した。甲府地方裁判所所長、浦和地方裁判所所長なども務めた。
著述
編集- 共著
親族
編集- 萱野長裕 ‐ 会津藩家老。
- 井上ツナ - 長裕妻。
- 萱野長修 - 会津藩家老。戊辰戦争首謀者のうちの生存者として、1869年長崎裁判所から家名断絶と切腹を命じられる[注釈 1]。一刀流溝口派の相伝者。
- - 長修妻[注釈 2]。
- 萱野長正 ‐ 改姓し、郡長正。
- 萱野寛四郎 ‐ 改姓し郡寛四郎。1872年(14歳)から書生として元幕臣軍艦役並の石渡栄次郎(石渡敏一父)宅に寄宿し、日本郵船外国航路船長となる[注釈 3]。
- 石渡登美 - 寛四郎妻。石渡敏一の妹。
- 郡虎彦 ‐ 養子。石渡登美姉の錫と鈴木耕水の六男。
- 萱野隆衡 ‐ 会津藩士。改姓し三淵隆衡。
- 佐野登喜 - 隆衡妻。佐野貞次郎長女。
社会への影響
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『司法大観』財団法人法曹会、1967年7月、58頁。NDLJP:3048613/40。
- ^ 『埼玉年鑑』(昭和61年版 別冊)埼玉新聞社、1985年11月、211頁。NDLJP:9643560/114。
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第4286号、大蔵省印刷局、1941年4月23日、975頁、NDLJP:2960784/18。
- ^ 大日本法曹大観編纂会 編『大日本法曹大観』国民社、1936年10月、51頁。NDLJP:1268254/42。
- ^ a b “「虎に翼」の“はて?”を解決!「スマートボール場火災事件は実際にあった……総力戦研究所についても聞きたい!」」”. ステラnet. NHK財団 (2024年8月2日). 2024年8月3日閲覧。
- ^ 『人事興信録』(第17版 下)人事興信所、1953年9月、み之部 19頁。NDLJP:3025812/405。
- ^ 佐賀千恵美『三淵嘉子の生涯』内外出版社、2024年4月、140頁。ISBN 978-4862576941。
- ^ 明治10年4月。1877年生。
- ^ 『茨城人名録』いはらき新聞株式会社、1939年12月、205頁。NDLJP:1028502/106。
- ^ 『人事興信録』(第16版 下)人事興信所、1951年11月、み之部 15頁。NDLJP:2997929/311。
- ^ 『人事興信録』(第21版 下)人事興信所、1961年11月、み之部 27頁。NDLJP:3022365/578。
- ^ “著作権者を捜しています”. 有斐閣. 2024年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月4日閲覧。
- ^ 神野潔『三淵嘉子――先駆者であり続けた女性法曹の物語』日本能率協会マネジメントセンター、2024年3月。ISBN 978-4800591784。
- ^ 『人事興信録』(第17版 上)人事興信所、1953年9月、そ之部 7頁。NDLJP:3025541/545。
- ^ “虎に翼 第18週「「七人の子は生すとも女に心許すな?」」を振り返って”. Meiji NOW. 明治大学 (2024年8月2日). 2024年8月3日閲覧。