浦和市

日本の埼玉県にあった市

浦和市(うらわし)は、埼玉県南部に存在した1995年以降県内最多の人口を有し、県庁所在地として県行政の中枢を担っていた。東京都特別区部への通勤率は35.9%(2000年国勢調査)。市制施行前は北足立郡に所属していた。

うらわし
浦和市
調神社
浦和市章
浦和市章
浦和市旗 浦和市章
廃止日 2001年5月1日
廃止理由 新設合併
浦和市大宮市与野市 → さいたま市
現在の自治体 さいたま市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
市町村コード 11204-6
面積 70.67km2
総人口 486,538
推計人口、2001年4月1日)
隣接自治体 川口市大宮市岩槻市与野市蕨市戸田市朝霞市志木市富士見市
市の木 モクセイ
市の花 サクラソウ
市の歌 浦和市歌
浦和市役所
所在地 336-8633
埼玉県浦和市常盤6丁目4番4号
外部リンク 浦和市Internet Archive
座標 北緯35度51分42秒 東経139度38分44秒 / 北緯35.86153度 東経139.6455度 / 35.86153; 139.6455座標: 北緯35度51分42秒 東経139度38分44秒 / 北緯35.86153度 東経139.6455度 / 35.86153; 139.6455
浦和市の県内位置
特記事項
シンボルマーク
ウィキプロジェクト

2001年大宮市与野市と合併してさいたま市となり、廃止。2003年には、さいたま市の政令指定都市移行・区制施行に伴い、旧市域にあたる部分がおおむね桜区浦和区南区緑区の4区に分けられた。 旧浦和市域を総称して「浦和地区」という。中心市街地は、現在の浦和区に位置する浦和駅周辺。

概要 編集

埼玉県の県庁所在地であり、廃止直前の2000年時点で70.67平方キロメートルの面積に県内最大となる人口約48万人(現在は約58万人)を有していた。古くは調神社玉蔵院門前町として栄え、奈良時代には律令制政庁がおかれた。江戸時代になると中山道の宿場町である浦和宿として発達していった都市である。また東部の大門地区はかつての日光御成街道の宿場でもあった。

1869年(明治2年)1月28日、武蔵国内にある旧幕府領・旗本領の管轄のため武蔵知県事宮原忠英の管轄区域をもって大宮県が設置されたが県内に実質的な県庁は置かれず、同年9月29日になって県域内で最も人口があった浦和宿に県庁が置かれ浦和県を称した。後に忍県岩槻県などとの合併による埼玉県(当時)成立、さらに入間県合併により現在の埼玉県が発足した後も一貫して県庁が置かれ、最終的に1890年に勅令によって正式な県庁所在地に指定される。なお1883年には県内初となる鉄道である日本鉄道上野駅 - 熊谷駅間(現在の高崎線)が開業し、この時に県内最古の駅の一つ、また現在のさいたま市内で最古の駅である浦和駅が開業している(開業は大宮駅より早い)。

入間県を編入して川越が最も人口のある都市となったが、浦和も県都として各種行政施設のほか埼玉県師範学校(明治6年に学制改正局として発足し翌年改称)、医学校(明治9年)、県立浦和第一尋常中学校、県立浦和高等女学校、旧制浦和高等学校などが次々と開設され、全国から優秀な学生が集まるようになった[1]旧制浦和高等学校は当時の東京帝国大学(現東京大学)への合格者が全国で2番目だったことから帝大への登竜門と称された。さらに1923年の関東大震災を契機に、震災の被害が少なくかつ東京から20km圏内と交通の便の良い浦和には東京や横浜方面からの移住者が増加し、1932年の東北本線電車(現在の京浜東北線)延伸開業とも相まって都市化が進んだ。「鎌倉文士浦和画家」とも称されたように浦和は充実した官立の教育施設群とともに文化人の活躍の地としても有名になり「文教都市」としての名声を高めていく。このような中1934年には川越市熊谷市川口市の3市に次ぐ県内4番目となる市制施行を果たした。

なお先述の埼玉県師範学校は埼玉県におけるサッカー発祥の地となり、卒業生が県内の学校に赴任してサッカーを普及させた[2]。第二次世界大戦後、高校年代の各チームが全国大会でタイトルを獲得したことで、埼玉県は静岡県広島県と共に「サッカー御三家」と称された[2]1992年からはプロサッカークラブ・浦和レッドダイヤモンズの本拠地となっている[2]

戦後の浦和市は高度成長期の東京都市圏の拡大の中で大幅に人口が拡大し、周辺町村を合併しながら発展の一途を辿る。1961年の南浦和駅開業、1973年の武蔵野線開業や1985年の埼京線開業を経て都内および県内他都市と結ぶ鉄道交通も発達し、市内では急激な人口増加に小中学校の開設が追い付かず児童の飽和状態が問題となった。市東部の特に現在の緑区西部では多くで区画整理事業により造成され、宅地となった。さいたま市発足後にはみそのウイングシティの造成も始まった。

1995年以降は、川口市を抜いて埼玉県内最大の人口を擁した。埼玉県の県政、文化の中心都市であり、高級住宅地として知られていることから県内最大の市民所得(総市民所得、1人あたり市民所得ともに)を有する[3]とともに、商業においても県内最大の売上となっている伊勢丹浦和店があり、さいたま市発足前の時点で大宮市に次ぐ県内第2位の商品販売額を誇っていた。さいたま市発足以降はさいたま市役所が旧浦和市役所を利用して設けられ、旧市内でも浦和駅周辺地区はさいたま市の都市計画における都心地区の一つとして再開発が進められている。2007年には浦和パルコ市立中央図書館を含む再開発ビルが浦和駅東口に完成した。

なお、県庁所在地としては最後に市制を施行し(1934年)、初めて消滅した県庁所在地の市である。

地理 編集

  • 東京特別区と埼玉県の境界から北に約6キロメートル関東平野の中央部南寄りに位置する。埼玉県の南東部にあたるが、県内の区分では中央地域とされることが一般的である(県最西部は「西部地域」ではなく「秩父地方」と呼ばれ、その東側、すなわち県中南部にあたる入間地方、比企地方などが「西部地域」と呼ばれることが多いため)。
  • 西側の境をなす荒川、東部に芝川見沼代用水、東側の境をなす綾瀬川などの河川が、それぞれ北から南に流れる。
  • 関東平野の中にあり、山岳丘陵は存在しない。全域が台地および低地からなり、海抜20メートルを超える地区はない。主に荒川に近い西部、東西に2本並ぶ見沼代用水の間、綾瀬川に近い東端部に低地が広がるほか、鴻沼川藤右衛門川などの小河川沿いに谷状の地形が見られる。中央部はこのような谷地を除けば、北方から市南部に連なる大宮台地浦和大宮支台上に位置しており、浦和市の源となった浦和宿も、この台地の上に位置していた。主な河川は北から南に流れており、東西に並列している。
  • 東西約15km、南北約7kmという東西に細長い市域であった。これは浦和町・浦和市が東西に連なる諸町村を合併した結果である。中央部西寄りを北側から与野市(現:さいたま市中央区)が突きだしていた。市域は「コウモリが羽を広げたような形」と称されていた。
  • さいたま市の政令指定都市移行に伴い、旧浦和市域は、概ね西部が桜区、中心部・北部が浦和区、南部が南区、東部が緑区となった(大原六丁目・七丁目は大宮区さいたま新都心内の上木崎一丁目8番30号および35号が中央区)。なお、旧浦和市域に位置する4区の人口は合計消滅後に50万人を突破、2005年の人口は504,442人、2010年の人口は527,761人(国勢調査)と増加し、2015年には人口55万人を突破した。直近の推計人口は594,710人
  • 2000年(平成12年)の時点で、概ね見沼代用水西縁以東、荒川周辺に広がる河川敷を除く、市域の6割強が人口集中地区となっていた。
  • 気候についてはさいたま市浦和区の記事を参照のこと。なお、現在のアメダスの観測地点「さいたま」は、旧浦和市の北西端、大久保浄水場内に設置されているが、さいたま市の成立以前は「浦和」の名称がつけられていた。

住宅地として 編集

住宅地としての人気は、関東大震災以後急速に高まる。それに先立つ大正5年初頭の國民新聞の紙上において、東京近郊の理想的な住宅地・別荘地を投票により選定する企画が行われた、浦和町は郊外住宅地部門では9等、別荘地部門では8等に入賞し、良好な郊外住宅地としてすでに認知されていた。具体的な理由も掲載され、東京への近さ、教育環境の充実、下水道整備率の高さなどが挙げられていた。また、鹿島臺(鹿島台、現在の別所沼周辺)の風光明媚さや災害の不安が少ないことも記され、当時はまだ畑も多く宅地開発の余地があった鹿島台が住宅地として注目されていたことが分かる。震災直前には鹿島台に官吏や教員向けの町営住宅を建設しており、また大正11年9月には浦和耕地整理事業が着工し、町としても浦和の住宅地・別荘地の期待や住宅不足に対応するため、実際に宅地としての開発が本格化していた。

そうした矢先の1923年(大正12年)関東大震災が発生し、浦和は東京や横浜から移住する人で一気に3000人以上の人口増加が起こった。当時の人口は1万2000人程度だったので、25%の増加率であった。とくに前述の鹿島台エリアである別所沼周辺には、富裕層や官僚以外にも画家の移住や画家のアトリエが目立ったため、同じような理由で移住が増えた鎌倉鎌倉文士という言葉と対になる浦和画家という言葉が生まれた。昭和初期には40人以上の画家が集住し「さながら絵描き村である」と報道された[4]。その後も現在に至るまで、都心から近い閑静な好立地も一因として住宅地の人気を保ち続けている。

浦和区の世帯所得は2013年時点で年収1000万円以上が20パーセント[5]を超えるなど、高級住宅地が多い世田谷区渋谷区よりも比率が高く、首都圏でも最高水準を記録している[要出典]これは購買力の高い官僚、医師、社長などが多く居住することも大きな理由となっている[要出典]公立高校では全国最多の東京大学合格者を出す年度もあった埼玉県立浦和高等学校が所在するなど、大卒者の多さも所得に影響している[要出典]高級住宅地として称される地域としては岸町常盤高砂仲町、などとその周辺があげられる[要出典]

歴史 編集

江戸時代まで
明治から第二次大戦まで
戦後

後から岩槻市も2005年10月2日にさいたま市と合併する。

人口 編集

1995年川口市の人口を上回って以来、県内で最大人口を有していた。また、旧市域にほぼ相当する桜区・浦和区・南区・緑区の2023年2月時点での人口の合計は約59.1万人に増えており、鳩ヶ谷市を編入後の川口市の人口も上回るに至っている。

  • 1934年(昭和9年)2月11日 - 4万3078人[7](市制施行日)
  • 1935年(昭和10年)10月1日 - 4万4328人(大宮町を抜き県内2位に)
  • 1940年(昭和15年)10月1日 - 5万9671人
  • 1945年(昭和20年) - 9万3696人
  • 1947年(昭和22年)10月1日 - 10万6176人
  • 1950年(昭和25年)10月1日 - 11万5019人
  • 1955年(昭和30年)10月1日 - 14万3044人
  • 1950年(昭和35年)10月1日 - 16万8757人
  • 1965年(昭和40年)10月1日 - 22万1337人
  • 1970年(昭和45年)10月1日 - 26万9397人
  • 1975年(昭和50年)10月1日 - 33万1145人
  • 1980年(昭和55年)10月1日 - 35万8185人
  • 1985年(昭和60年)10月1日 - 37万7235人
  • 1990年(平成2年)10月1日 - 41万8271(1988年9月に40万人突破)
  • 1995年(平成7年)10月1日 - 45万3300人(川口市を抜き県内1位の人口に)
  • 2000年(平成12年)10月1日 - 48万4845人

住民基本台帳人口による合併後の旧浦和市域の人口変動(桜区・浦和区・南区・緑区の合計)。すべて4月1日時点(台帳法改正前の2012年以前は台帳人口+外国人登録人口の数値)[8]

2005年(平成17年) 503,766人
2010年(平成22年) 528,145人
2015年(平成27年) 546,903人

行政 編集

歴代首長
代(浦和町長) 氏名 就任年月日 退任年月日 期・備考
星野平兵衛 1889年5月8日 1899年6月7日
2 大島寛爾 1899年6月10日 1901年5月8日
3 平野勝明 1901年6月26日 1903年2月13日
4 土肥政芳 1904年2月28日 1906年4月26日
5 平野勝明 1906年5月1日 1914年5月4日
6 大島寛爾 1914年5月7日 1921年12月17日
7 小谷野伝蔵 1921年2月6日 1923年8月20日
8 石内保太郎 1923年12月27日 1926年7月3日
9 大島寛爾 1926年7月22日 1928年4月5日
10 田中栄三郎 1928年5月17日 1929年3月22日
11 松沢藤助 1929年4月1日 1930年12月16日
12 高橋泰雄 1931年3月28日 1934年2月10日
代(浦和市長) 氏名 就任年月日 退任年月日 期・備考
中村元治 1934年2月11日 1934年4月11日 市長職務管掌者
埼玉県地方課長として埼玉県より派遣
高橋泰雄 1934年4月11日 1936年1月19日 1期
1931年3月28日 - 1934年2月10日まで浦和町長として1期在任(通算2期)
2 小谷野伝蔵 1936年3月27日 1938年8月1日 1期
1921年2月6日 - 1923年8月20日まで浦和町長として1期在任(通算2期)
3 相川宗次郎 1938年9月28日 1942年9月27日 1期
4 安井大吉 1942年9月28日 1944年10月25日 1期
5 高橋泰雄 1944年11月8日 1946年3月11日 1期(通算3期目)
6 阿佐見新作 1946年4月5日 1947年3月7日 1期
7 松井計郎 1947年4月5日 1951年4月4日 1期・当代以降は公選制により選出
8 川久保義典 1951年4月23日 1955年5月1日 1期
9 1955年5月2日 1959年5月1日 2期
10 本田直一 1959年5月2日 1963年5月1日 1期
11 1963年5月2日 1967年5月1日 2期
12 相川曹司 1967年5月2日 1971年5月1日 1期、相川宗次郎の長男
13 1971年5月2日 1975年5月1日 2期
14 中川健吉 1975年5月2日 1979年5月1日 1期
15 1979年5月2日 1983年5月1日 2期
16 1983年5月2日 1987年5月1日 3期
17 1987年5月2日 1991年5月1日 4期
18 相川宗一[9] 1991年5月2日 1995年5月1日 1期、相川曹司の長男
19 1995年5月2日 1999年5月1日 2期
20 1999年5月2日 2001年4月30日 3期、合併によるさいたま市の設置に伴い失職
2001年5月27日 - 2009年5月26日までさいたま市長として2期在任(通算5期)

産業 編集

商業 編集

さいたま市」の項を参照。

姉妹都市・提携都市 編集

日本国外 編集

1979年10月2日、姉妹都市提携
1981年10月12日、友好都市提携
1984年5月14日、姉妹都市提携
1994年6月16日、姉妹都市提携

日本国内 編集

これらの関係はすべてさいたま市に引き継がれている。

交通 編集

主な学校 編集

食文化 編集

うなぎ

浜松三島などと列んで、ウナギ蒲焼が名物となっている。また、創業100年を超える蒲焼の老鋪も多い。合併後の2008年にはやなせたかしによるキャラクター浦和うなこちゃんが誕生した。また浦和うなぎまつりさいたま市役所で行われている。

ケーキ
  • 総務庁統計局家計調査年報(1998年 - 2000年)の平均によると、旧浦和市の1世帯当たりの年間ケーキ購入額が全国で1位となったため、埼玉中央青年会議所(埼玉中央JC)が「ケーキのまち・さいたま」を宣言し、ケーキで街おこしをしようと毎年ケーキにちなんだイベントを開催している。
パスタ
  • 旧浦和市での消費量が全国で1位である[10]

スポーツ 編集

さいたま市#スポーツを参照。

サッカーではJリーグ浦和レッズが本拠地を置く。浦和市時代にホームスタジアムである埼玉スタジアムの建設が始まり、さいたま市成立後に完成した。それ以前にホームスタジアムであった浦和駒場スタジアム浦和レッズレディースのホームスタジアムとなっている。

プロ野球では千葉ロッテマリーンズ二軍ロッテ浦和球場に本拠地を置き、社会人野球では強豪の日本通運硬式野球部が駒場に本拠地を置く。また、全浦和野球団さいたま市営浦和球場を本拠地としている。

また、高校サッカーでは浦和高校浦和西高校浦和市立高校浦和南高校が全国制覇を果たし、高校野球では浦和学院高等学校が、さいたま市成立後の2013年に全国制覇を果たしている。

浦和市を舞台とした作品 編集

浦和市が舞台、もしくは浦和市がモデルとして登場する作品は、以下の通りである。

出身著名人 編集

脚注 編集

  1. ^ うぇぶさいず旧浦和市の歴史 より
  2. ^ a b c さいたま市中学校向け授業「埼玉サッカー100年と浦和レッズ」を開始”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2013年3月19日). 2013年11月2日閲覧。
  3. ^ さいたま市ホームページ統計より
  4. ^ 東京日日新聞 昭和6年8月18日付
  5. ^ 2013年(平成25年)住宅・土地統計調査による。分母からは収入階層不明の世帯を除く。
  6. ^ 浦和市史通史編Ⅲ
  7. ^ わがまち浦和
  8. ^ さいたま市の人口・世帯(時系列結果)”. さいたま市. 2020年4月27日閲覧。
  9. ^ 浦和市ホームページより
  10. ^ [1]

関連項目 編集