上原 立斎(うえはら りっさい、1794年〈寛政6年〉 - 1854年〈安政元年〉1月18日)は、江戸時代後期の儒学者近江高島郡の人、旧姓は多胡、名は正福、通称は甚太郎。

来歴 編集

若くして大津に出て川島栗斎に学び、崎門学者として知られた。在京中にその名声を聞いた梅田雲浜は門下となり、立斎は雲浜の才を認め、娘の信(しん)を嫁がせた(しんは、書画にも優れた才女で、国事に奔走する雲浜をよく支えたが、29歳の若さで病死した)。 嘉永7年(安政元年)没、61歳。大津の大練寺に葬る。門人には雲浜の他、池上隼之助笠夕山等がある[1][2][3]

出典 編集