上東門院小馬命婦

平安時代の女房、勅撰歌人。勅撰集『後拾遺和歌集』に1首入集。

上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ、生没年不詳)は、平安時代の女流歌人。父は藤原棟世、母は清少納言円融朝の歌人で、家集小馬命婦集』で知られる同名の小馬命婦とは別人。生年は藤原彰子後宮に出仕している寛弘5年(1008年)から逆算して、母・清少納言藤原定子後宮出仕前(正暦4年(993年))以前となる[1]

略歴 編集

尊卑分脈』の系図より藤原南家藤原棟世の娘であることが、また和歌六人党の藤原範永範永朝臣集』の詞書より母が『枕草子』の著者として知られる清少納言であることが知られ、一条天皇皇后上東門院彰子に仕えたことから円融朝の小馬命婦と区別し上東門院小馬命婦と称される。

増淵勝一は、父清原元輔の友人藤原棟世と清少納言の結婚を寛和二年(986)ごろとし、長徳長保の交(998-999)には、十歳くらいで彰子後宮に参勤したと推定している。また早稻田大学大学院文学研究科蔵『後拾遺和歌抄』第16(909番歌-下記参照)の小馬命婦の注記に「前摂津守藤原棟世朝臣女、母清少納言、上東門院女房、童名狛、俗称小馬」とあることから、催馬楽「山城」「山城の狛のわたりの瓜つくり な なよや」とあることを踏まえ、「山城守」の娘の「狛」なる連想が働いて童名となったと類推している[2]

安藤重和は、『紫式部日記』に見える若く髪の美しい女房の「こむま」「こまのおもと」がこの人物であるとする[3]。ただし、『紫式部日記絵詞』・黒川本『紫式部日記』には「左衛門左道順が女」と注記されているため、この注記については、父・棟世の没後、高階貴子の兄妹である高階道順の養女になったとする解釈である。

従来説は、益田勝実の「少高嶋(こまのたかしま)」なる采女説であった[4]萩谷朴『紫式部日記全注釈』[5]も益田説に従っていたが、後年、安藤説によって「小馬」を清少納言の娘に改めている[6]

続後撰和歌集』釈教部作者に「清少納言女」が見えるが小馬命婦と同一人物かは不明[7]。また治暦4年(1068年)に開催された『呂保殿歌合』出詠者の「こま」なる人物の経歴には上東門院には小馬命婦として仕え、後一条天皇の時代に内侍となり、次いで章子内親王に出仕したとあるが両親については不明とされている[8]

和歌 編集

後拾遺和歌集』に以下の1首が採られている。高階為家は紫式部の孫。清少納言の孫との間に関係があったことになる。

為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき — 『後拾遺集』908番

参考文献 編集

  • 岩沢愿彦監修『系図纂要名著出版、1997年
  • 渡邉美希「伴直方『枕冊子考』「清少納言の事跡」の考察 ―多田義俊『枕草紙抄』との関係に着目して」『日本文芸論叢』第29巻、2022年。 
  • 角田文衛『一条の后 藤原高子』幻戯書房、2003年3月。ISBN 4-901998-02-1 

脚注 編集

  1. ^ 萩谷朴『紫式部の蛇足 貫之の勇み足』新潮社、2000年3月。 
  2. ^ 増淵勝一『「清少納言の生涯」平安朝文学成立の研究 韻文編』国研出版、1991年4月、145頁。 
  3. ^ 安藤重和 (1984-3). “「こまのおもと」考-『紫式部日記』試論”. 古代文化 (古代学協会) 36巻3号. 
  4. ^ 益田勝実 (2006). “紫式部日記の新展望”. 日記文学研究資料叢書 紫式部日記 (クレス出版) 8巻-5. 
  5. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈』角川書店、1971.1973。 
  6. ^ 萩谷朴『紫式部の蛇足 貫之の勇み足』新潮社、2000年3月。 
  7. ^ 渡邉美希 2022, p. 39.
  8. ^ 角田文衛 2003, p. 370.