中村玄角
中村 玄角(なかむら げんかく)は、戦国時代の武将。中村日向守。下野国の宇都宮氏家臣。第14代中村城主。子に時長。実名は不詳。入道して玄角。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文13年(1544年)10月7日 |
別名 | 中村日向、藤原日向入道玄角 |
戒名 | 玄角院殿光往根常大居士[1] |
墓所 | 栃木県真岡市荘厳寺[1] |
官位 | 日向守 |
主君 | 宇都宮俊綱 |
氏族 | 中村氏 (下野国) |
父母 | 父:中村義長 母:宇都宮成綱の娘[1] |
妻 | 葛西宗清の娘[1] |
子 | 時長、女子(伊達右兵衛室) |
宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた。源義経の遺児とされる中村朝定より数えて15代目の孫[2]にあたる。中先代の乱において宇都宮氏の臣になり旧領である中村城をこの玄角の代まで累代居住としていた。入道して嫡男時長が中村城主になる。
中村城の戦い
編集天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が攻めてきた際に嫡男の時長とともに撃退している。領民に慕われていた玄角親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。玄角は嫡男時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家宇都宮を頼るよう命じた。玄角は城の南西において激闘の中、討ち死にした。時長は父、玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した[2]。その後、中村領は敵におちるが領民は中村玄角、時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい」[3]という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。
出典・脚注
編集参考史料
編集- 中村沿革誌(松本宗内、下野史料、1895年)
- 中村郷土誌(田代黒瀧、下野史料、1912年)
- 芳賀郡南部郷土誌(佐藤行哉、1936年)
- 宇都宮氏家臣録(徳田浩淳、宇都宮市立中央図書館所蔵)
- 野州中村神社縁起(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會)
参考文献
編集- 真岡市史案内 第4号(真岡市教育委員会、1985年)
- 真岡市史 第6巻 通史編 原始・古代・中世(真岡市史編纂委員会、1987年)
- 中村八幡宮と奥州伊達氏とのかかわり(中村八幡宮社務所、2002年)
- 伊達一族とその起源〔古樹紀之房間、古代及び中世氏族の系譜関係資料〕(宝賀寿男、2002年)
- 坂東武士の系譜・第4部 激動の時代37 中村玄角[4](産経新聞 2019年9月22日)
注釈
編集- ^ 地元遍照寺 (真岡市)の口伝では時長は奥州岩ケ淵の館に住んだとされるが新田氏族の中村日向と混同されて伝わったものと考えられる、また水谷側の資料「水谷蟠龍記」には父の治持が玄角を討取ったとあり、「寛政重修諸家譜」の治持の譜文に、猿山の合戦後、中村十二郷が結城・水谷領になったとある。猿山合戦は大永6年(1526年)であるので、この年が廃城と考えられる
出典
編集- ^ a b c d 野州中村神社縁起 P28
- ^ a b 真岡市史案内第4号・P69「遍照寺古詩」
- ^ 芳全寺(水谷蟠龍斎:菩提寺)栃木県真岡市
- ^ 産経新聞THE SANKEI NEWS 坂東武士の系譜・中村玄角