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中村 時長(なかむら ときなが)は、戦国時代の武将。小太郎、中村日向守。下野国宇都宮氏家臣。第15代中村城主。

 
中村 時長
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 慶長2年
別名 小太郎、日向守
主君 宇都宮俊綱宇都宮広綱宇都宮国綱
氏族 中村氏 (下野国)
父母 父・中村玄角
中村日向守吉兵衛(宇都宮国綱家臣)
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宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた中村玄角の嫡男。源義経の遺児とされる中村朝定より数えて16代目の孫にあたり中村城最後の城主[1]

中村城の戦い編集

 
栃木県指定文化財・中村城跡
 
中村入道玄角石碑

天文13年(1544年)10月に結城氏の家臣で後に負け知らずの猛将と謂われる水谷正村(後の蟠龍斎)が中村城に攻めてきた際に父の玄角とともに正村の軍勢を撃退している。領民に慕われていた玄角・時長親子は中村の領民と共にその晩、祝杯をあげていたがその領民を盾に正村の軍勢が夜襲を掛けた。父玄角は時長に城に火を放ち、その隙に領民を逃し主家宇都宮を頼るよう命じ自らは城の南西において楯になり激闘の中、討ち死にした。父玄角の命により中村城に火を放ち無念の中、宇都宮へ返した[2]。中村の領民たちは中村玄角、時長親子を慕い「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠竜なけりゃよい[3]という草取り唄を歌い継ぎ、果敢に領民を守った玄角の討ち死にの地には碑が立ち、最後の城主時長を祀る社が領民によって建立され、現代まで伝わっている。

石島ケ原の合戦(久下田城の戦い)編集

水谷正村は中村領を手中に治めるも玄角の策により中村城が焼失していたため天文14年(1545年)に久下田城を宇都宮領との境界近くに築城し、自らがいた下館城には弟の水谷勝俊を配置した。中村城の戦いの顛末に宇都宮俊綱は憤激し、4月に武田治部太夫信隆を大将に時長、八木岡貞家を先鋒に久下田城に攻め入った。時長は常野の鏡久下田表に水谷勢と戦ったが大将の武田治部太夫信隆、八木岡城主の八木岡貞家が討ち取られてしまい時長は孤軍奮闘なるも旧領を取り戻すことは叶わなかった[4]

中村小太朗神社編集

 
中村小太郎神社

中村城の戦い久下田城の戦いの後、天文15年(1547年)~24年(1555年)の頃に時長は中村城の弔いと敵方に城址を利用されないため、領民を守るためにと、時長自らが中興開基となり遍照寺を北東に3キロほど離れた茅堤の地より中村城址に遷らしたとされている。中村領民たちは宇都宮へと移領してなお中村の郷を思護する時長を慕い中村大明神を時長の名である中村小太朗神社として結城領、その後天領となった後にも領民たちの手によって守られ現代まで伝えられている。なお現在は中村領民たちの手によって中村朝宗(伊達朝宗)をご祭神とし歴代の中村氏を祀り、中村城址内である遍照寺の敷地内へと移築されている。

豊臣秀吉による宇都宮仕置きと宇都宮国綱の改易編集

時長は宇都宮広綱宇都宮国綱宇都宮氏の重臣となり拝領された宇都宮の地にいた。天正18年(1590年)に、伊達政宗が秀吉に服属してほどなく、秀吉の日本統一が達成された宇都宮城奥州仕置宇都宮仕置)が行われた。この宇都宮の地において時長と政宗が接見[注釈 1]したとされている。

慶長2年10月13日1597年11月22日豊臣秀吉により宇都宮国綱が突如として改易された。

時長は宇都宮氏より拝領していた戸祭村にそのまま留ったが宇都宮氏が宇都宮城主として再興することはなかった。

慶長2年(1597年)に書かれた宇都宮国綱家臣名簿(栃木県立図書館所蔵)には宇都宮国綱家臣としては最大の10万石を領し戸祭村に住したと記載されている[注釈 2]。時長はこの宇都宮国綱が改易された慶長2年に没したと伝わっている。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 慶長2年に書かれた宇都宮国綱家臣録の中村日向守の功に「後仙台伊達ト号ス陸奥守ノ先祖也」との但書が記載されて中村城主であった時長が当時既に伊達政宗との縁戚関係にあったことが周知の事項であったと推察されてる。
  2. ^ 遍照寺 (真岡市)の口伝では時長は奥州岩ケ淵の館に住んだとされるが新田氏族の中村日向と混同されて伝わったものと考えられる。

出典編集

  1. ^ 真岡市史案内第4号・P69「遍照寺古詩」
  2. ^ 真岡市史案内第4号・P69「遍照寺古詩」
  3. ^ 芳全寺(水谷蟠龍斎:菩提寺)栃木県真岡市
  4. ^ 真岡市史案内第4号・P69「遍照寺古詩」