中院 定清(なかのいん さだきよ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公家武将。源定清としても知られる。中院定平の子。越中守

 
中院定清
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 建武2年12月12日1336年1月25日
別名 源定清
官位 越中守
父母 父:中院定平
兄弟 定清雅平
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経歴

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建武の新政の頃、父・定平が護良親王に仕えると、左近衛中将、越中守に任じられ越中国へ赴いた。建武2年(1335年)8月、中先代の乱が起こると越中でも北条時兼が蜂起。中院定清は、一旦は鎮圧に成功するものの、次いで守護である井上俊清が蜂起すると抗しきれず越中・能登国境にあった寺院、石動山を頼ることとなる。同年12月12日、井上俊清が石動山を攻めた際に戦死[1]

出典

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  1. ^ 富山県公文書館『とやまの歴史』富山県、1998年、46頁。