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南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。1336年から1392年までの57年間を指す[1][2]。ただし、始期の日付から終期の日付までの期間は、56年弱である(後述)。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる[3]。始期はユリウス暦1337年1月23日延元元年/建武3年12月21日)、 建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏京都で新たに光明天皇北朝持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇南朝大覚寺統)が吉野行宮に遷った時期であり[1][注釈 1]、終期はユリウス暦1392年11月19日元中9年/明徳3年閏10月5日)、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇譲位するかたちで両朝が合一した時期である(明徳の和約[1]。 始期を、建武の新政の始まりである1333年とする場合もある[2]

南北朝の内乱
戦争南北朝の内乱
年月日
和暦延元元年/建武3年12月21日 - 元中9年/明徳3年閏10月5日
西暦1337年1月23日 - 1392年11月19日
場所日本の旗 日本
結果明徳の和約による南北朝合一
実質的には室町幕府の武家単独政権の成立
交戦勢力
Imperial Seal of Japan.svg 南朝 Imperial Seal of Japan.svg 北朝
Ashikaga mon.svg 室町幕府
指導者・指揮官
Imperial Seal of Japan.svg天皇

Imperial Seal of Japan.svg 後醍醐天皇
Imperial Seal of Japan.svg 後村上天皇
Imperial Seal of Japan.svg 長慶天皇
Imperial Seal of Japan.svg 後亀山天皇


准后
Sasa Rindō inverted.png 北畠親房


総大将
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田義貞 
Japanese crest Kikusui.svg 楠木正行 
Japanese crest Kikusui.svg 楠木正儀
Japanese crest Kikusui.svg 和田正武
Japanese crest Kikusui.svg 楠木正儀(再)
Japanese crest Kikusui.svg 楠木正勝


Denjisō inverted.png 四条家
Denjisō inverted.png 四条隆資 
Denjisō inverted.png 四条隆俊 


Sasa Rindō inverted.png 伊勢国司北畠家
Sasa Rindō inverted.png 北畠顕能
Sasa Rindō inverted.png 北畠顕泰


Imperial Seal of Japan.svg 征夷大将軍
Imperial Seal of Japan.svg 興良親王
Imperial Seal of Japan.svg 宗良親王


Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田氏
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田義興 
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田義宗 
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田貞方


Sasa Rindō inverted.png 陸奥将軍府
Sasa Rindō inverted.png 北畠顕家 
Sasa Rindō inverted.png 北畠顕信


Imperial Seal of Japan.svg 征西将軍府
Imperial Seal of Japan.svg 懐良親王
Imperial Seal of Japan.svg 後征西将軍宮


Japanese crest narabi Takanoha.svg 菊池氏
Japanese crest narabi Takanoha.svg 菊池武光
Japanese crest narabi Takanoha.svg 菊池武政 (DOW)
Japanese crest narabi Takanoha.svg 菊池武朝

Imperial Seal of Japan.svg天皇

Imperial Seal of Japan.svg 光厳天皇
Imperial Seal of Japan.svg 光明天皇
Imperial Seal of Japan.svg 後光厳天皇
Imperial Seal of Japan.svg 後円融天皇
Imperial Seal of Japan.svg 後小松天皇


准后
Nijō Fuji.png 二条良基


Ashikaga mon.svg 征夷大将軍
Ashikaga mon.svg 足利尊氏
Ashikaga mon.svg 足利義詮
Ashikaga mon.svg 足利義満


Ashikaga mon.svg 直義党
Ashikaga mon.svg 足利直義 処刑
Ashikaga mon.svg 足利直冬


執事/管領
Hanawa001.jpg 高師直 処刑
Hanawa001.jpg 高師世 処刑
Hanawa001.jpg 高師直(再) 処刑
Ashikaga mon.svg 仁木頼章
Japanese Crest Marunouti ni Futatu Hiki.svg 細川清氏 
Ashikaga mon.svg 斯波義将
Japanese Crest Marunouti ni Futatu Hiki.svg 細川頼之
Ashikaga mon.svg 斯波義将(再)
Japanese Crest Marunouti ni Futatu Hiki.svg 細川頼元


Ashikaga mon.svg 鎌倉公方
Ashikaga mon.svg 足利基氏
Ashikaga mon.svg 足利氏満


関東執事/管領(略)
Japanese Crest Uesugi Sasa.svg 上杉憲顕
Ashikaga mon.svg 畠山国清


奥州総大将/管領(略)
Ashikaga mon.svg 斯波家長 
Ashikaga mon.svg 畠山国氏 


Ashikaga mon.svg 九州探題(略)
Ashikaga mon.svg 一色範氏
Ashikaga mon.svg 今川了俊

戦力
- -
損害
- -
南北朝の内乱

概要編集

鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝[注釈 2]の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。

こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。現皇統は南北朝の合一以来、北朝である。

南北朝時代の意義とは、上部構造から見れば、公家勢力のほぼ完全な無力化、そして武家単独政権の成立である[2]。前代鎌倉時代鎌倉幕府朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を有していた。ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、天皇家など旧勢力の権威は失墜し、一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権・民事裁判権・商業課税権などを次々と簒奪されていった[4]。南北朝が合一したとき、後に残った勝者は南朝でも北朝でもなく、足利将軍家を中心とする室町幕府守護体制による強力な武家の支配機構だった[4]

一方、南北朝時代の意義は、下部構造から見れば、二毛作の普及等で生産力が向上し、民衆の力が増したことにより、それまでの日本社会は族縁(血筋・婚姻)を元に形成されていたのに対し、この時代に「」(村落)、つまり地縁で結ばれるようになったことにある[3]。氏族の支配ではなく、地域の支配が重要になったのである。戦乱が60年近くの長期に及んだのも、この社会構造の変化が、基本的な要因である[3]。こうして、地域を単位とした新しい勢力は「国人」と呼ばれ、南北朝の内乱を契機として台頭し、やがて国人層への優遇政策を打ち出した室町幕府につくなど、大勢力の政治動向を左右した[3]。南北朝の社会をリードしたのは、バサラ大名(旧来の権威を無視する武士)に加えて、下部構造から出現した「悪党」(悪人という意味ではなく、旧勢力に反抗的な地域組織という意味)だった[4]河内の一悪党に過ぎなかった楠木正成が南朝に有力武将として登用されて『太平記』でヒーローとして描かれ、その息子の楠木正儀公卿である参議にまで登りつめていることは、その端的な象徴である。

南北朝の内乱における上部構造と下部構造の変化は、日本という国の有り様を根底から変革した。

  • 農業面では、施肥量の増大や水稲の品種多様化、灌漑施設の整備によって稲の収穫量が高まり[2]、また、鎌倉時代にもたらされた二毛作が普及するなど、生産力が著しく向上した[3]。こうして、食料生産が十分になったことにより、カラムシ(糸が作れる)、真綿エゴマ(油が取れる)などの原料作物も多く作れるようになった[2]
  • 商工面では、上記の原料作物の生産力向上により、(すだれ)、(むしろ)、索麺(そうめん)などが世間に流通するようになった[2]
  • 経済面では、上記の商工面の向上に伴い、貨幣経済が一般に浸透した[2]
    • ただし、1270年代に、中国元朝南宋を征服して交鈔紙幣の一種)を普及させたことから、余った宋製の銅銭が、大量に日本になだれこんだことも大きい[5]。1995年には、大田由紀夫が「商工業が発達したから貨幣が出回った」のではなく、むしろ「(南宋の滅亡により)貨幣が出回ったから商工業が発達したのではないか」という説を唱え[5]、現在はこちらの説が支持されるようになっている[6]
    • 土地売買に用いられる銭の利用率について、1200年は20%未満だったのが、1250年には50%を超え、(広義の)南北朝時代が始まる直前の1320年には75%超となっていた[7]。銅銭の普及は、紙媒体である割符などの手形の普及にも繋がっていく。
  • 文化面では、上記の農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽能楽[4]連歌[2]闘茶茶道の原型)[2]ばさらかぶき者歌舞伎の原型)[2]などが生まれた。
  • 宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し、京都五山を定めた[2]
  • 外交面では、上記の宗教面で台頭した禅僧が中国事情に詳しかったことから、との外交顧問を務めた[2]
  • 学術面では、上記の宗教面・外交面の進展により、儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになった[8]北畠親房神皇正統記』(1343年)は、執筆目的としては南朝の正統化ではあるものの、血筋や神器だけではなく「徳」を持つ者が帝位に相応しいという宋学思想が色濃く反映されており、江戸時代の儒家にも影響を与えている。
  • 文芸面では、上記の宗教面・外交面・学術面の発展から、漢詩が普及し、絶海中津義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛した[2]。また、商工面の発展ともあいまって、禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えた。前述した宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』は、その頂点を為すものである。
  • 芸術面では、前記、経済面の充実と文芸面の五山文学の影響から、禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成された。夢窓疎石天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されている。さらに、連歌の完成者二条良基・能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになった[9]

こうして、南北朝の内乱は、生産力から美意識まで、全ての角度において、新しい日本を形成していくことになった。

天皇編集

南北朝の天皇
南朝 北朝
95花園天皇(1308-1318)
文保2年(1318年)2月26日 96後醍醐天皇(1318-1331)
元徳3年(1331年)9月20日 [注釈 3] 北1光厳天皇(1331-1333)
正慶2年(1333年)5月25日
建武3年(1336年) 南1後醍醐天皇(1336年12月-1339) 北2光明天皇(1336年8月-1348)
延元4年(1339年)8月15日 南2(97)後村上天皇(1339-1368)
貞和4年(1348年)10月27日 北3崇光天皇(1348-1351)
観應2年(1351年)11月7日
観應3年(1352年)8月17日 北4後光厳天皇(1352-1371)
正平23年(1368年)3月11日 南3(98)長慶天皇(1368-1383)
應安4年(1371年)3月23日 北5後円融天皇(1371-1382)
永徳2年(1382年)4月11日 北6後小松天皇(1382-1392)
弘和3年(1383年)10月 南4(99)後亀山天皇 (1383-1392)
明徳3年(1392年)10月5日 100後小松天皇(1392-1412)
  • 天皇の後の()内は在位期間

系図編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
88 後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王
鎌倉将軍6)
 
持明院統
89 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
90 亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康親王
(鎌倉将軍7)
 
92 伏見天皇
 
 
 
 
 
久明親王
(鎌倉将軍8)
 
91 後宇多天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93 後伏見天皇
 
95 花園天皇
 
守邦親王
(鎌倉将軍9)
 
94 後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康仁親王
木寺宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
栄仁親王
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


歴史編集

南北朝成立まで編集

鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って大覚寺統持明院統に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。

1333年元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発した。これに応えた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。政局の混乱が続き、恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできなかった。公家も天皇による前例の軽視に不満を持ち、親政に失望した。北条氏の残党が引き起こした中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。

後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じる。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、尊氏らは京都へ入るが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり駆逐された。尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇院宣を掲げて東征する。迎え撃つ宮方は新田義貞・楠木正成湊川の戦いで敗れ、比叡山に篭った。尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で建武式目を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く。後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。

観応の擾乱と南朝勢力の衰微編集

南朝方は名和長年結城親光千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、さらには翌年後醍醐天皇が崩御したことで軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮大阪市住吉区)とする。

1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。

南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。1339年(延元4年/暦応2年)の後醍醐天皇崩御後、南朝の指導的人物となるが親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝は再び衰微する。1358年(正平13年/延文3年)4月足利尊氏が死去すると新田義貞の遺児義宗や出羽に逃れていた北畠顕信らが再起を試みるも、組織的な蜂起には至らなかった。逆に北朝側は南朝掃討の大攻勢に出て赤坂城(河内国)などを落とすが、1361年(正平16年/康安元年)幕府内での抗争で失脚した細川清氏が南朝に帰順して、楠木正儀(正成の子)らと共闘し一時は京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回され劣勢を覆すことはできなかった。足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服し、1367年(正平22年/貞治6年)和睦交渉を行うも北朝に拒絶され、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなった。同年1367年12月28日(旧暦12月7日)、二代将軍義詮没。

1368年正平23年/応安元年)、南朝で強硬派の長慶天皇が即位すると、和平派の楠木正儀は南朝内で孤立することとなった。そのため、翌1369年正平24年/応安2年)、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった正儀を帰順させることに成功。南朝は強硬路線をとったことで、主要人材を失い、かえって勢力を落とし、幕府方が体制を確立することになってしまった。

九州の情勢編集

九州では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏仁木義長などの勢力が争いを続けていた。南朝は勢力を強化するために後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返した。観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に足利直義が殺害されると、直冬は中国に去った。延文4年/正平14年(1359年筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸らと北朝方の少弐頼尚少弐直資の父子、大友氏時城井冬綱ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。足利義詮の死に端を発して、九州の南朝勢力は正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こし長門・周防方面へ進軍を開始するものの、大内氏に阻まれ頓挫した。

またこの頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、1372年懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に朝から冊封を受け、「日本国王」となるものの、室町幕府は今川貞世を九州へ派遣して攻勢をかけ大宰府を奪回する。

南北朝合一編集

南朝が衰微していく一方で、足利義満の相次ぐ有力守護大名勢力削減策により、幕府はますます中央集権化を進めていき、その勢力差は歴然であった。

1382年弘和2年/永徳2年)には、ようやく楠木正儀が南朝へ帰参し参議に任じられるが、もはや昔日の名将としての面影はなく、同年、北朝の山名氏清に敗退している。和平派の正儀が参議という高官として台頭したことや、1383年(弘和3年/永徳3年)に北畠顕能懐良親王が続けざまに死去、動乱初期からその支えとして活躍してきた軍事的支柱を失った南朝は、同年冬、対北朝強硬路線を通していた長慶天皇が、弟である和平派の後亀山天皇に譲位。正儀はその後、数年内に死去したと考えられ、宗良親王も1385年に死去したことから、南朝の指揮官の地位は嫡子の楠木正勝が継いだ。しかし、正勝は1388年元中5年/嘉慶2年)に平尾合戦で山名氏清に敗北、1392年(元中9年/明徳3年)春には、畠山基国の攻勢により、楠木氏の本拠地である千早城を喪失。南朝は北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。

こうして、

といった南朝が北朝へ合流する条件が出揃った。

このような情勢の中で1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすること[注釈 4]を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。『大乗院日記目録』は、これを「南北御合体、一天平安」と記している。

南北朝合一を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は九州南部に拠る菊池武朝と和睦し、九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。

後南朝編集

合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年正長元年)以後、激化することとなる。

1443年嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主金蔵主兄弟をかついで神璽宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。

後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年長禄元年)に南朝後裔の自天王忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。

最後に史料に登場するのは、『勝山記』に1499年明応8年)霜月(11月)、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。

土地支配の変化編集

鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち天皇家・公家・寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになった。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の守護の権限であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになった。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていた。

戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になった。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなった。

後年編集

近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。明治時代には皇統は南朝が正統とされ、文部省国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き続き使用したが、1937年昭和12年)、皇国史観で知られる平泉澄宮内省芝葛盛らの批判を受けた。所内の協議の結果、辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、出版は中断することになった。

第二次世界大戦後、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。『大日本史料』出版も再開された。

文化・社会風潮編集

連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。政治的混乱が大きい時代でもあったので、ばさら二条河原落書など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。

人物編集

考察編集

南北朝期内の段階区分編集

南北朝時代の中での段階区分については、以下のような説がある。

林屋辰三郎は、厳密な暦年により区分するのではなく、各時代を代表とする人物によっておおまかに4つに分けている[10]

国史大辞典』(佐藤和彦担当)は、以下のように4つに区分している(前史を「1期」とカウントしているため、厳密には3期区分である)[4]

日本大百科全書』(永原慶二担当)も『国史大辞典』とほぼ同じだが、前史を除外して全3期と数えている[2]

  • 第1期:1336–1348年、南朝成立から、四條畷の戦いで楠木正行が戦死、後村上天皇が行宮を賀名生に遷すまで[2]
  • 第2期:1349–1367年、観応の擾乱から足利義詮の死まで[2]
  • 第3期:1368–1392年、足利義満の将軍就職から両朝統一まで[2]

南北朝時代の元号編集

西暦 1330年 1331年 1332年 1333年 1334年 1335年 1336年 1337年 1338年 1339年
南朝 元徳2年 元弘元年 元弘2年 元弘3年 建武元年 建武2年 延元元年 延元2年 延元3年 延元4年
北朝 元徳3年 正慶元年 正慶2年 建武3年 建武4年 暦応元年 暦応2年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年 1347年 1348年 1349年
南朝 興国元年 興国2年 興国3年 興国4年 興国5年 興国6年 正平元年 正平2年 正平3年 正平4年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年 貞和3年 貞和4年 貞和5年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑
西暦 1350年 1351年 1352年 1353年 1354年 1355年 1356年 1357年 1358年 1359年
南朝 正平5年 正平6年 正平7年 正平8年 正平9年 正平10年 正平11年 正平12年 正平13年 正平14年
北朝 観応元年 観応2年 文和元年 文和2年 文和3年 文和4年 延文元年 延文2年 延文3年 延文4年
干支 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥
西暦 1360年 1361年 1362年 1363年 1364年 1365年 1366年 1367年 1368年 1369年
南朝 正平15年 正平16年 正平17年 正平18年 正平19年 正平20年 正平21年 正平22年 正平23年 正平24年
北朝 延文5年 康安元年 貞治元年 貞治2年 貞治3年 貞治4年 貞治5年 貞治6年 応安元年 応安2年
干支 庚子 辛丑 壬寅 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉
西暦 1370年 1371年 1372年 1373年 1374年 1375年 1376年 1377年 1378年 1379年
南朝 建徳元年 建徳2年 文中元年 文中2年 文中3年 天授元年 天授2年 天授3年 天授4年 天授5年
北朝 応安3年 応安4年 応安5年 応安6年 応安7年 永和元年 永和2年 永和3年 永和4年 康暦元年
干支 庚戌 辛亥 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未
西暦 1380年 1381年 1382年 1383年 1384年 1385年 1386年 1387年 1388年 1389年
南朝 天授6年 弘和元年 弘和2年 弘和3年 元中元年 元中2年 元中3年 元中4年 元中5年 元中6年
北朝 康暦2年 永徳元年 永徳2年 永徳3年 至徳元年 至徳2年 至徳3年 嘉慶元年 嘉慶2年 康応元年
干支 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳
西暦 1390年 1391年 1392年 1393年
南朝 元中7年 元中8年 元中9年 明徳4年
北朝 明徳元年 明徳2年 明徳3年
干支 庚午 辛未 壬申 癸酉

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ つまり、発端となった事件はユリウス暦上では既に年が替わっており1337年である。しかし、西暦上でも1336年を南北朝時代に含めるのが通例である[2]
  2. ^ のちには大和国賀名生・摂津国住吉・山城国男山八幡・河内国金剛寺などを転々とする。
  3. ^ 後醍醐天皇の記録としての在位期間は文保2年(1318年)2月26日 - 延元4年(1339年)8月15日
  4. ^ 実際には国衙領はわずかしかなかった。

出典編集

  1. ^ a b c 佐藤 1997a.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 永原 1994.
  3. ^ a b c d e 小川 2007.
  4. ^ a b c d e f g h i 佐藤 1997b.
  5. ^ a b 大田 1995.
  6. ^ 呉座 2014, 第2章.
  7. ^ 横山 2011, p. 36.
  8. ^ 久木 1997.
  9. ^ 田中裕、「幽玄」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
  10. ^ a b c d e 林屋 2017, はしがき.

参考文献編集

  • 宇野俊一、「南北朝正閏問題」 『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 
  • 大田, 由紀夫一二-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布 : 日本・中国を中心として」『社会経済史学』第61巻第2号、1995年、 156–184,282、 doi:10.20624/sehs.61.2_156  
  • 小川信、「南北朝時代」 『改訂新版世界大百科事典平凡社、2007年。 
  • 呉座勇一 『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』 新潮社、2014年。ISBN 978-4106037399 
  • 佐藤和彦、「南北朝時代」 『国史大辞典吉川弘文館、1997a。 
  • 佐藤和彦、「南北朝の内乱」 『国史大辞典吉川弘文館、1997b。 
  • 永原慶二、「南北朝時代(日本)」 『日本大百科全書小学館、1994年。 
  • 林屋辰三郎 『南北朝 日本史上初の全国的大乱の幕開け』 朝日新聞出版〈朝日新書〉、2017年。ISBN 978-4022737441 (1957年に創元歴史選書として初版、1991年に朝日文庫として改版が発行されたものの新書版)
  • 久木幸男、「儒教(二)〔古代・中世〕」 『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 
  • 横山, 和輝鎌倉・室町期日本の貨幣経済」『オイコノミカ』第47巻3–4、2011年、 25–41。  

関連項目編集