丹羽 賢(にわ まさる、1846年6月26日弘化3年閏5月3日) - 1878年明治11年)3月20日)は、尾張藩勤王運動家、明治期の官吏

司法省発足時の丹羽賢少丞(後列左端)。その右に、島本仲道警保頭 、松岡康毅七等出仕、松本暢権大判事(元壬生藩御典医・石崎誠庵)、尾崎忠治中判事、阪本政均警保助。前列左より、玉乃世履権大判事、福岡孝弟大輔、江藤新平司法卿、楠田英世明法権頭、渡辺驥少丞。1872年。[1]

人物

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1846年(弘化3年)閏5月3日、300石を領する尾張藩士丹羽佐一郎氏常の子として尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は淳太郎。

名古屋の勤王思想家国枝松宇の私塾で四書五経を、森春濤に詩を、書を外祖父高木雪居に学ぶ。

以後、国枝私塾の同窓である中村修之進(中村修)、田中国之輔(田中不二麿)と親交を保つようになる。

1862年文久2年)、父に従って江戸に出、昌平黌に学ぶうち国学家の松本奎堂の知遇を得る。国枝、松本の感化を受け尾張勤王運動の急先鋒となり、田中、田宮如雲とともに藩内の倒幕活動に尽力する。

慶応3年(1867年)、藩校明倫堂の教官となる。また、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の小御所会議に参席しており、新政府の参与に任ぜられている。

維新後は東京府判事摂行(せっこう)、ならびに名古屋藩大参事になる。

1871年(明治4年)11月、廃藩置県により安濃津県参事に転じる。1872年(明治5年)4月、三重県権令、8月、司法少丞権大検事を兼ねる。1875年(明治8年)、司法大丞となる。1876年(明治9年)2月、五等判事となる。

1877年(明治10年)、廃官とともに病に臥す。1878年(明治11年)3月、重篤に陥り、明治天皇夫妻より果物の見舞品を贈られるも、病没。わずか33歳であった。

1913年大正2年)、維新の功を認められ、大正天皇より従四位を贈られる[2]

漢詩に優れた腕前を示し、没後の1880年(明治13年)春、自作詩がまとめられた詩稿『花南小稿』全2巻が、旧友である司法卿田中不二麿の手で刊行されている。

脚注

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  1. ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.31