久野宗成

日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将。紀州藩田丸城代家老久野家初代当主

久野 宗成(くの むねなり、天正10年(1582年) - 寛永2年(1625年))は、紀州藩田丸城代家老久野家初代当主。

父は徳川家家臣久野宗朝。祖父は元・今川氏真家臣で徳川家康に仕えた久野宗能。子は久野宗晴通称は金五郎。官位従五位下・丹波守。

生涯 編集

天正10年(1582年)、久野宗朝の次男として生まれる。慶長元年(1596年)、父宗朝が徳川秀忠上洛の供をした際、遺恨により三宅弥次兵衛を殺害し、自害したため改易となり、本多忠勝に養われる。久野家は祖父の久野宗能が再勤することになり、下総国佐倉藩13000石から1000石となったが、宗能は関ヶ原の戦いの戦功で8千500石に加増され、旧領遠江久野城を与えられた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに出陣し、退却する島津義弘勢を本多忠朝と共に追撃し戦功を挙げる。慶長14年(1609年)、祖父宗能が83歳で死去したため家督を相続し、遠江久野城主となる。慶長16年(1611年)、従五位下・丹波守に任官。同年、主君徳川家康の十男の駿河駿府城徳川頼宣付き家臣となる。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年大坂夏の陣に出陣する。元和5年(1619年)、頼宣が紀州に転封となると、1万石を与えられ、熊野地域の押えとして田丸城代となる。

寛永2年(1625年)死去。

関連項目 編集