二条持基
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生涯編集
父は関白の二条師嗣で次男[1]。母は参議の東坊城長綱の娘[1]。初名は基教(もとのり)という[1]。応永17年(1410年)に兄の満基が急死したため、その養子となって家督を継いだ[1]。応永31年(1424年)、称光天皇の関白となる[1]。正長元年(1428年)に称光天皇が崩御し、後花園天皇が即位すると摂政に転じた[1]。永享5年(1433年)に関白となる[1]。官位は従一位太政大臣になった[1]。
書道や歌道にも優れ、京都郊外の岩倉の別邸で歌会を何度も催している[1]。『新続古今和歌集』には持基の詠歌が収められている[1]。
文安2年(1445年)11月3日に死去。享年56[1]。家督は子の持通が継いだ。
経歴編集
※ 日付=旧暦
- 応永16年(1409年)、正五位下左近衛少将
- 応永17年(1410年)、従四位下、正四位下備前権介権中納言、従三位
- 応永18年(1411年)、正三位権大納言
- 応永19年(1412年)、従二位
- 応永21年(1414年)、正二位
- 応永26年(1419年)、左近衛大将内大臣。翌年に両職とも辞職。
- 応永27年(1420年)、左大臣。応永32年(1425年)に辞職。
- 応永28年(1421年)、従一位
- 応永31年(1424年)、関白。正長元年(1428年)に辞職。
- 応永33年(1427年)、左大臣。永享元年(1429年)に辞職。
- 正長元年(1428年)、摂政。永享4年(1432年)に辞職。
- 永享4年(1432年)、摂政。太政大臣。翌年に辞職。
- 永享5年(1433年)、関白。死去まで。