井村徳二
日本の実業家、政治家(1899-1958)
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井村 徳二(いむら とくじ、1899年(明治32年)11月18日 - 1958年(昭和33年)10月27日)は、石川県出身の実業家、政治家[1]。
井村徳二 いむら とくじ | |
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生年月日 | 1899年11月18日[1] |
出生地 | 石川県 |
没年月日 | 1958年10月27日(58歳没)[1] |
出身校 | 早稲田大学商科[2] |
前職 | 会社社長 |
所属政党 |
民主党 改進党 |
称号 |
正五位 勲三等瑞宝章 |
選挙区 | 石川県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年5月3日 - 1958年10月27日 |
選挙区 | 石川県第1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年4月25日 - 1948年12月23日 |
創業者の井村徳三郎の後、宮市大丸の社長に就任し、合併に伴い大和の初代社長に就任[3]。
父は井村徳三郎(大和の前身である宮市百貨店創業者)[4]。子女は井村寿二[1](勁草書房創業者、元大和会長)、宮太郎[5](元大和社長)、井村喜代子[6](慶應義塾大学名誉教授、マルクス経済学者)。従兄に鍔甚平(つば甚店主)。
経歴
編集1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙では林屋亀次郎が国務大臣として行った地元石川県の内灘試射場の用地接収(内灘闘争)を批判して組合を味方につけ、現職の国務大臣を破る大番狂わせを演じた[7]。
当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵[8]として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれた[7]が、対立候補の林屋は1943年(昭和18年)12月21日に戦時統合で林屋が経営していた丸越との合併で大和となった際に林屋が初代会長で井村が初代社長を務めた関係でもあった[3]。また、北陸鉄道の代表取締役社長を1949年から1954年まで歴任した[9]。
1958年(昭和33年)10月27日、現職議員のまま死去、58歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される[10]。
国政選挙歴
編集- 1947年(昭和22年)4月25日:第23回衆議院議員総選挙に民主党から出馬し初当選
- 1949年(昭和24年)1月23日:第24回衆議院議員総選挙で落選
- 1953年(昭和28年)4月24日:第3回参議院議員通常選挙に改進党から出馬し当選(国務大臣で前職の林屋亀次郎に勝利)[7]
脚注
編集- ^ a b c d 上田正昭 平山郁夫 西澤潤一 三浦朱門『講談社 日本人名大辞典』講談社、2001年12月6日。ISBN 4-06-210800-3。
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』
- ^ a b 大和五十年史刊行委員会『大和五十年のあゆみ』大和、1972年9月。
- ^ 重利俊一『日本硬質陶器58年の歩み』日本硬質陶器(現ニッコー )、1965年10月20日。
- ^ お探しのページが見つかりませんでした 中日スポーツ
- ^ 「井村喜代子教授略歴・著作目録」『三田学会雑誌』第87巻第4号、慶應義塾経済学会、1995年1月、632(124)-635(127)、CRID 1050845762333907200、ISSN 0026-6760。
- ^ a b c 法政大学大原社会問題研究所『日本労働年鑑 第27集 1955年版』時事通信社、1954年11月5日。
- ^ 株式会社金沢名鉄丸越百貨店 第96期有価証券報告書 (Report). 金沢名鉄丸越百貨店. 24 May 2012.
- ^ 『北陸鉄道の歩み』 - 北陸鉄道(1974年3月)
- ^ 『官報』第9559号585頁 昭和33年10月31日号