京極高房

江戸時代前期の旗本

京極 高房(きょうごく たかふさ、寛永21年(1644年) - 延宝5年5月21日1677年6月21日))は、江戸時代初期の旗本京極忠高の一人娘・伊知子と家老の多賀宮内常良の第2子。京極高和の養嗣子となった。通称、頼母。妻は生駒高俊の娘。娘に祐子(京極高豊養女、石川総乗室)。

5歳の時、当時播磨龍野藩主だった高和の養嗣子として江戸に下る。母の伊知子は、この時の別離の悲しさと出世の喜びを手記「涙草」に綴った。その後、高和に実子の京極高豊が誕生する。寛文4年(1664年)4月5日、高和の跡を継いで丸亀藩主となった高豊より、3000石を分知された。延宝5年に34歳で没し、同年7月28日、娘が1人あったが男子はなく、宗家に封地は還付された。