今園 国映(いまぞの くにてる[1]嘉永4年5月25日1851年6月24日) - 明治26年(1893年4月12日)は、日本の華族坊城俊政の次男で宮内大輔芝山国典養子。興福寺聖賢院住職[2]

今園国映

経歴

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文化2年(1862年)仏門に入り、奈良興福寺塔頭賢聖院の法嗣として入り、慶応4年(1868年)正月に同院を相続した。しかし同年4月に堂上家出身の門跡および諸院家は還俗を命ぜられ、明治2年11月華族に列し今園家を創建した。1874年(明治7年)から1892年(明治25年)まで、土師神社(現道明寺天満宮)の宮司を務めた。1875年(明治8年)華族となり、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[3][注釈 1]

1891年(明治24年)12月19日、貴族院男爵議員に選出され[4]、死去するまで在任した[5][6]。墓所は金戒光明寺

親族

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  • 妻セイ(1859年年生)大阪士族・高瀧小藤治(小藤太)の娘。[2][7][8]
  • 長男 今園国貞(貴族院男爵議員)[9] 
  • 二男 紀俊忠(男爵紀俊秀娘富美子婿)
  • 娘智子(1877年生)男爵有馬頼多と離婚後、黒田直綱の妻となる。有馬との娘・千賀子は離婚後今園家が引き取って祖母セイの養子となり、のち松岡一衛に嫁ぐ。
  • 娘文子(1889年生)子爵竹内惟忠の弟・竹内茂(1883年生)の妻[2][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 子爵との説もある(日本人民大辞典(平凡社)

出典

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  1. ^ くにはえ(橋本天理教教祖伝p279)
  2. ^ a b c 今園国定『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929年。
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、4頁。
  5. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、5頁。
  7. ^ 今園国貞『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  8. ^ 有馬正賴『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  9. ^ 『平成新修旧華族家系大成 上巻』201頁。
  10. ^ 竹内惟斌『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
今園家初代
1884年 - 1893年
次代
今園国貞