今田 新太郎(いまだ しんたろう、1896年明治29年)7月5日[1][2] - 1949年昭和24年)8月29日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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東京府[1][3]、旧郡山藩士・剣道道場主、今田主悦の長男として生まれる[1]仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる[1][4]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した[1][2][3]

1927年(昭和2年)7月、歩兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となる[1]。以後、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員、奉天駐在)、参謀本部員、歩兵第49連隊大隊長、関東軍司令部付(満州国軍顧問部)、参謀本部員を務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に進んだ[1]。1938年(昭和13年)12月、台湾混成旅団参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。同旅団参謀長第21軍参謀を務め、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に昇進[1][3]南支那方面軍参謀を経て、1940年(昭和15年)3月、歩兵第73連隊長に転じ朝鮮に赴任した[1][2][3]

1941年(昭和16年)3月、第36師団参謀長に発令され、中国の諸作戦に参加[1][2][3]。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。1943年に第36師団はニューギニアに転用されニューギニアの戦いに参加[2]。1945年(昭和20年)4月、第2軍参謀長に発令されたが戦況悪化のため赴任できず、同年5月、第36師団参謀長に再任され終戦を迎えた[1][2][3]。1946年(昭和21年)12月に復員した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。墓所は多磨霊園

親族

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  • 義弟 磯田幾三郎(陸軍少佐)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、95頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』102-103頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』420頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』416、420頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」37頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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