佐竹 宗実(さたけ むねざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。のちに明智姓を与えられて明智秀慶と称した[1]

 
佐竹 宗実 / 明智 秀慶
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 天正18年9月23日1590年10月21日
改名 佐竹宗実→明智秀慶
官位 出羽守
主君 明智光秀丹羽長秀
氏族 佐竹氏明智氏
父母 父:佐竹蓮養坊
兄弟 宗実、左近允
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略歴

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佐竹氏山城国愛宕郡高野の地侍で、妻が吉田兼見の妻と同胞であったことから兼見とは親交があった[2]。のちに織田信長が上洛を果たすと宗実は明智光秀の麾下に属すが、一時期「二十日銭」の利権を巡って光秀と係争を起こし、柴田勝家細川藤孝に援助を依頼している[2]

天正6年(1578年)11月、光秀の命を受けて摂津に出陣し、翌天正7年(1579年)には八上城攻めに参加して負傷している[2]

天正10年(1582年)の本能寺の変山崎の戦いにおける活躍は不明だが、『兼見卿記』によれば蜂須賀正勝の取りなしによって助命されたという[2]。その後、丹羽長秀に仕えて300石を与えられるが、のちに真如堂に隠居して天正18年(1590年)9月23日に死去した[2]

脚注

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  1. ^ 福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』中公新書、2020年12月25日、40頁。ISBN 9784121026224 
  2. ^ a b c d e 藤木久志 編『織田政権の研究』吉川弘文館〈戦国大名論集 17〉、1985年11月10日、382-383頁。