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吉祥寺マイナー(きちじょうじマイナー)は、1978年3月から1980年9月まで東京都武蔵野市に存在した邦楽アンダーグラウンドシーンを象徴する伝説的なライブハウス(当初はジャズ喫茶だった)。通称マイナーminorとも。店長はガセネタ佐藤隆史

歴史編集

店長の佐藤隆史1955年昭和30年)に香川県で生まれた。高校中退後、絵の勉強をするため1970年代後半に上京。その後、ジャズピアニスト山下洋輔に私淑しピアノを始める。後に桜台ジャズ喫茶アルバイトを経て東京都武蔵野市吉祥寺ジャズ喫茶マイナー」を1978年3月7日に開店[1]。なおマイナー開店の理由はジャズ喫茶が佐藤にとって「暇で楽で接客が少ない職業」だったからである[1]

当初マイナーはコンテンポラリー・ジャズを中心とした王道のジャズ喫茶としてスタートしたが、川田良の勧めで週末にロックコンサートも開催するようになった6月以降[1]ロックミュージシャン山崎春美灰野敬二工藤冬里竹田賢一白石民夫浜野純大里俊晴角谷美知夫園田佐登志らが頻繁に出入りしてパンクニューウェイブノイズフリー・ジャズ即興演奏を行うようになってから徐々にマイナーの様子がおかしくなっていく。まず演奏に邪魔なテーブルは店の端や外に追いやられ、壁に飾られた絵画や長椅子やカウンターといった喫茶店の内装もライブスペースに不向きという理由から次々に取り壊された[2]。まともなジャズ・ファンは店から消えていき、開店から半年経った頃には、すでにマイナーはジャズ喫茶ではなくなっていたという[1]

当時マイナーでウェイターを勤めていたガセネタ大里俊晴が「佐藤さんが僕らを受け入れて、週末に(マイナーで)ライブを入れることになった頃には、たむろしていたチンピラ・ロック小僧どもに荒らされて、既に見る影も無くなっていた。後は、廃墟へとひた走る崩壊の歴史だ」と述懐するように、喫茶店としてのマイナーは誰の目から見ても明らかに荒廃の一途を辿っていった[2]

当時のマイナーのエピソードとして灰野敬二が午前中にマイナーで練習している際、パトカーがやってきて「女が首を絞められ、のた打ち回っているような悲鳴が聞こえた」という通報があったと警察官が話した[1]、店内の装飾を担当した小西ヤスが天井に殺した鶏を吊るして焼きそばを焼いていた[1]、オッド・ジョンの田中トシが持ってきた鶏がステージの下に入り込んで卵を流産し、透明のグチュグチュとした未熟卵に中途半端なひよこの姿があった[1]フリクションのラピスが冷蔵庫マイクを突っ込んで「今日は気分が乗らないので冷蔵庫が変わりに歌います」とだけ言い、あとは風景の映像を延々流し続けた[1]、などなど伝説や逸話は数知れず、最終的に店内は床板も剥がされ厨房も破壊され、殺風景な打ちっ放しコンクリートのみが広がっていたという[2]

当然まともな客は来なくなり、1日の平均客数はたったの7人程度で[1]、当時マイナーに客として通っていた元『スタジオ・ボイス』編集長の松山晋也は「とにかくいつも客が圧倒的に少なかった。10人以下なんてのは普通。ひどい時は、バンド・メンバーの数より客数が少ないことも。特に『愛欲人民十時劇場』なんて、客が僕一人しかいなかったことも何度かあった」と回想している[3]

こうしてマイナーは開店した当初の「壁には絵の額が飾られ、卓上には花が置かれ、カレーの味を誇る小奇麗なジャズ喫茶」[4]から名実ともに日本一マイナーでアンダーグランドフリー・ミュージック・スペースへと変貌を遂げた。またマイナー末期には、額をカミソリで切り流血、放尿、生きたままのニワトリシマヘビを食いちぎり、自らの小便を口に含んで客に吹きかけるなど過激なライブパフォーマンスを展開していた江戸アケミ財団呆人じゃがたらや、観客に豚の臓物や汚物、爆竹などを投げ込み、全裸になってオナニーをするなど過激なパフォーマンスで脚光を浴びた遠藤ミチロウザ・スターリンも演奏を行うようになり、マイナーは日本のパンク・ロックシーン黎明期の混沌を象徴する伝説のライブ喫茶として東京地下音楽の総本山的地位に君臨し、その名を日本ロック史に残すことになった。

佐藤自身も1978年7月から年末までワーストノイズの演奏メンバーに参加し[1]、10月以降はガセネタのメインドラマーとして演奏活動を行った。また佐藤は音楽活動と並行して1979年2月9日からシリーズコンサート「うごめく・気配・きず」を4月1日までマイナーで毎週末深夜に開催し、同コンサートにはガセネタ、不失者、ワーストノイズ、黒涯蒼、TOKYO、オッド・ジョン、火地風水の7バンドをレギュラーに招き入れた。

ガセネタは「うごめく・気配・きず」の1979年3月30日のライブを最後に解散となり、佐藤はその後「愛欲人民十時劇場」「剰余価値分解工場」などのイベントを主催、この時にマイナーに集まった有象無象のメンバーが後にタコ(TACO)に発展する。しかし、度重なる赤字計上、隣接するパブから騒音に関する苦情、怪しい人々が出入りすることについてビル内の人間から再三の脅しなどを受け、嫌気がさした佐藤はマイナーを1980年9月28日に閉店してしまう[1]

ほどなくして佐藤はインディーズレーベルピナコテカレコード」を立ち上げて、オムニバスアルバム『愛欲人民十字劇場』や灰野敬二の1stアルバム『わたしだけ?』をリリース。1983年には山崎春美大里俊晴坂本龍一町田町蔵遠藤ミチロウ佐藤薫ロリータ順子らが参加したインディーズ史上に残る歴史的な名盤『タコ』をリリースする。同作は3000枚までプレスされ、当時の自主制作盤としては異例の売り上げを記録するが、収録曲中の「きらら」「赤い旅団」の歌詞(作詞は山崎春美)に部落差別障害者差別にあたる表現があるとの指摘を受け、佐藤の判断で販売停止・自主回収となる。後に佐藤は部落解放同盟や障害者団体とのやり取りをピナコテカレコードフリーペーパーアマルガム』や、その拡大版『インディペンデント・ジャーナル』に一方的な謝罪ではなく新たな議論を呼びかける形で公表した[5]

その後、佐藤は同和問題などでピナコテカレコードを解散した後、プロカメラマンパイロット免許の取得を経て、2010年頃に文京区小学校警備員になったというが、学校側との間でトラブルがあり、現在は退職している(その後の消息は不明)[6]

大里によれば佐藤は何でもそつなくこなしてしまう天才肌で、一度も触ったことがない楽器でもすぐにマスターしたという[2]。また大きめのエレキピアノをばらばらに分解してポータブル型に改造するなど修繕・修理も得意で、他にも図画現像配管工事はんだ付け、複雑怪奇な和文タイプライターの打ち込みまで何でも広くこなした[2]。しかし、その佐藤が唯一できなかったことが皮肉にも「喫茶店マスター」だったという[2]。なぜなら佐藤は昼夜関係なく40数時間起き続け、その後20時数間ぶっ通しで寝るという体内時計サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っており、定期的に喫茶店を開店するということが事実上不可能だった為である[2]。その後、起こされるのが嫌になった佐藤は電話を押入れの奥にしまってしまい、佐藤の寝坊でライブを一方的にキャンセルされたパンクスたちは壁のチラシをびりびりに破いてドアに「死ね」と落書きをして帰っていったというエピソードもある[2]

大里曰く佐藤は「エキセントリックなところのまるで無い、それでいてとても不思議な人間」とのことである[2]。佐藤やマイナーでのエピソードについては大里俊晴の伝記的小説『ガセネタの荒野』や地引雄一編『EATER'90s インタビュー集:オルタナティブ・ロック・カルチャーの時代』に詳しい。

関連年表編集

参考文献編集

関連項目編集

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k ばるぼら特集・吉祥寺マイナーとは何か?」『BET Vol.0』創刊準備号、2006年。
  2. ^ a b c d e f g h i 大里俊晴『ガセネタの荒野』洋泉社月曜社
  3. ^ 松山晋也「吉祥寺マイナーについての極私的回想録」『ロック画報08』(2002年5月/ブルース・インターアクションズ
  4. ^ 竹田賢一「実験室的な模索を続けるライヴハウスの周辺──マイナーを中心にしたフリーな活動」『ミュージック・マガジン』1980年6月号/日本のニュー・ウェイヴ特集(株式会社ミュージック・マガジン、1980年6月1日発行)
  5. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第5章「愛欲人民がうごめく夜」ロフトブックス、2016年9月、84頁下段注釈参照
  6. ^ 剛田武著『地下音楽への招待』第7章「フリー・ミュージック・ボックスの誕生と崩壊」ロフトブックス、2016年9月、177-178頁参照