光勝寺(こうしょうじ)は山梨県西八代郡市川三郷町上野にある寺院。宗派高野山真言宗山号は市瀬山。本尊千手観世音菩薩。甲斐国三十三観音霊場の第3番札所。甲斐百八霊場の第94番札所。

光勝寺

全景
所在地 山梨県西八代郡市川三郷町上野4308
山号 市瀬山
宗派 高野山真言宗
本尊 千手観世音菩薩
創建年 承久2年(1220年
開山 宥教
正式名 市瀬山光勝寺
札所等 甲斐国三十三観音霊場第3番札所
甲斐百八霊場第94番札所
甲斐西八代七福神大黒天
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概要 編集

寺記によれば、承久2年(1220年)に宥教が真言宗密教の道場として創建したという。しかし、『甲斐国志』によれば宥教の前に9代の住職がいたという。山号は、芦川の水上ということで「一瀬山光勝寺」と称したが[1]、『甲斐国志』によれば「市瀬山花勝寺」と称していた。

光勝寺は 甲府から 河内地方(峡南)を経由して富士川を南下して駿河国へ至る河内路(駿州往還)沿いにあり、鎌倉時代鎌倉幕府源頼朝に仕えていた武田氏は、相模国,駿河国,伊豆国への往還のたびに天下泰平・武運長久を祈願していたという[2]。そのため武田信光から寺領を寄進された。武田氏の祈願寺であるとともに、元享年間(1321年-1324年)には、後醍醐天皇 勅願寺ともなった。永禄年間(1558年-1570年)には、火災により堂宇が全焼し衰退した。天正11年(1583年)には徳川家康から寺領を寄進され、寛永19年(1642年)には徳川家光から寺領を寄進され、江戸幕府や歴代将軍からも庇護されたが、万治年間(1658年-1661年)には無住となった。そして寛文年間(1661年-1671年)には、現在の堂宇が再建された[3]

光勝寺の千手観音菩薩は、66年に一度開帳されることから、甲斐国三十三観音霊場の3番札所の観音として信仰を集めた[4]

伽藍 編集

  •  本堂(観音堂)
  •  山門(仁王門)
  •  弘法大師堂

文化財 編集

市川三郷町指定有形文化財
  •  光勝寺の仁王門 平成2年10月22日指定
  •  千手観世音菩薩像 平成2年10月22日指定
  •  不動明王像 平成2年10月22日指定
  •  毘沙門天王像 平成2年10月22日指定

御詠歌 編集

いちの瀬や
一世を登る
迎い舟
後の世までも
たのもしきかな

前後の札所 編集

甲斐国三十三観音霊場
2 永源寺 -- 3 光勝寺 -- 4 長谷寺
甲斐百八霊場
93 永泰寺 -- 94 光勝寺 -- 95 薬王寺 

周辺 編集

参考文献 編集

  •  市川忠三/坂上繁旦 共著『甲斐三十三観音順礼記』霊場復興会 1975年
  •  三珠町誌編纂委員会/編『三珠町誌』三珠町 1980年
  •  相沢晋夫『はるかなり遍路の旅』トリオ 1988年
  •  三珠町文化財審議委員会『三珠町の文化財』三珠町 1997年
  •  藤巻勝『甲斐国三十三ヶ所順礼記』サンニチ印刷 2005年

脚注 編集

  1. ^ 三珠町誌編纂委員会/編『三珠町誌』三珠町 1980年
  2. ^ 市川忠三/坂上繁旦 共著『甲斐三十三観音順礼記』霊場復興会 1975年
  3. ^ 相沢晋夫『はるかなり遍路の旅』トリオ 1988年
  4. ^ 市川忠三/坂上繁旦 共著『甲斐三十三観音順礼記』霊場復興会 1975年

関連項目 編集