光明
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仏教用語としての光明
編集光明(くゎうみゃう)とは、仏が発する光で、大乗仏典では智慧や慈悲の象徴として、瞑想中の全身から光明を放つ場面が描かれる。転じて「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表すこともある。
『倶舎論』によると自ら光を発するもの(太陽など)を光といい、その光を反射するもの(月など)を明という。
チベット仏教においてはいくつかの意味が存在する。密教の修行である究竟次第の修行法の一つに「光明」(楽現覚次第)がある[1][2]。また、経典『無上瑜伽タントラ』に説かれる光明は、大楽(マハースカ)が認識対象としての空性を理解し一つになった楽空無別の智慧を指す[3]。
→「ナーローパの六法」も参照
関連項目
編集脚注
編集参考文献
編集- 沖本克己 編『新アジア仏教史09 チベット 須弥山の仏教世界』(電子版)佼成出版社、2010年4月27日。ASIN B081GB5VQQ。
- 福田洋一、伏見英俊「第3章 宗派概説」、160-177頁。
- 野村清次郎、平岡宏一、三宅伸一郎「第6章 文化 現代チベット仏教の諸相」、318-379頁。
- 田中公明『インド密教史』(初)春秋社、2022年10月30日。ISBN 978-4-393-13458-0。
- 正木晃 (1996). “快楽と叡智”. 現代生命論研究 (国際日本文化研究センター) 9: 191-205 .