児玉 就秋(こだま なりあき、生没年不詳)は、戦国時代武将毛利氏家臣で、安芸児玉氏の一族。父は児玉弘家(広家)、兄に元実元為元保就近。後に次兄元為の養子となった。通称は弥七郎。官途は木工丞、若狭

 
児玉 就秋
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:弥七郎
官位 木工丞、若狭
主君 毛利元就
氏族 児玉氏
父母 父:児玉弘家 養父:児玉元為
兄弟 元実、元為、元保就近就秋
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生涯 編集

永正16年12月13日1520年1月13日)、毛利幸松丸の加冠状を受けて元服。この時に「元」の字を与えられ、弥七郎通称を名乗った(初名は不詳)。天文4年(1535年)に毛利元就から「就」の字と木工丞の官途を与えられて名を就秋と改め、天文21年(1552年)には毛利隆元から若狭の受領名を与えられた。

天文4年(1535年)の備後三吉氏の支城である上里城攻撃、天文9年(1540年)の安芸国造賀における平賀興貞との戦い、同年の安芸国吉田における尼子晴久との戦いに参加し、いずれの戦いでも元就から感状を与えられている。しかし就秋は武勇だけの人間ではなく、毛利元就の側近として政務を担当したほか、番衆の一人として奉行のもとで政務に携わった。その後は吉川氏に養子に入った吉川元春と毛利元就の連絡・調整役を務め、毛利氏と吉川氏の連携を図った。

天文24年(1555年)の厳島の戦いの後、弘治2年(1556年)の防長経略では吉川軍の指揮下に入って大内領北部の石見国の制圧に参加し、大内方の有力豪族である益田藤兼を降伏させた。就秋は天文11年(1542年)に石見国口羽の原田名に所領を与えられていたが、石見攻略後は安芸国内の山県、池田、船木佐々部坂本中河原西条飯田村などに散在する計九町半の所領を得、永禄4年(1561年)には元就から石見国吉浦を宛がわれている。

その後も吉川氏指揮下の武将として、伯耆国に出撃させる警固船の水夫の徴発や、安芸飯山城の普請等で活躍した。永禄5年(1562年)に吉川元春が腹痛で病床に伏せると、元就の見舞いの使者として元春の居城に赴いている。

永禄6年(1563年)から永禄9年(1566年)にかけて入道し、児玉若狭入道と呼ばれるようになる。没年は不詳。

関連項目 編集