円方女王(まどかたじょおう/まどかた の おおきみ)は、長屋王の王女。母は不詳で藤原長娥子とも智努女王とも言われる。天武天皇の曾孫。伊勢斎宮

円方女王
時代 奈良時代
生誕 不詳
薨去 宝亀5年12月22日775年1月27日
位階 正三位
父母 父:長屋王
兄弟 膳夫王桑田王葛木王鉤取王安宿王黄文王山背王智努女王円方女王賀茂女王
斎宮 元明天皇治世期(慶雲4年(707年)- 和銅8年(715年))
テンプレートを表示

生涯

編集

元明天皇の治世に伊勢斎宮に参入したとされている[1]

神亀6年(729年)の長屋王の変で父長屋王が自殺したとき、円方女王には罪が及ばなかった。天平9年(737年)10月、長屋王の遺児の叙位があった際には従五位下から従四位上に昇叙。天平宝字7年(763年)1月、従四位上から正四位上に昇叙。天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱の論功で従三位に昇叙。この年、法隆寺白銅鏡一面を献納[2][3][4]神護景雲2年(768年)1月、正三位に昇叙。宝亀5年12月(774年1月)に薨去。

万葉集』に(天平勝宝8歳頃の歌と想定される)1首の歌を残す。

  • 夕霧に千鳥の鳴きし佐保道(さほぢ)をば荒しやしてむ見るよしをなみ(20-4477)[5]

また、平城宮木簡に「円方女王、図書□王」とも見える[6]

官歴

編集

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

編集
  1. ^ 一代要記』元明天皇項によると、田方(田形)内親王多貴(多紀)内親王が各一度参入(伊勢参詣)し、次に智努女王、次に円方女王が各一度参入したとある。
  2. ^ 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「円方王」として名前が見える。
  3. ^ 『寧楽遺文』上巻350頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻2 - 591頁
  5. ^ この歌には「智努女王の卒(みまか)りにし後、円方女王の悲傷(かなし)びて作る歌一首」という詞書があり、智努女王(円方女王の母とも姉とも言われる)と親密な関係にあったと考えられている。
  6. ^ 平城宮出土木簡概報四 - 17

参考文献

編集
  • 平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。
  • 金子幸子ほか編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2007年。
  • 坂本太郎平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』588頁、吉川弘文館、1990年
  • 竹内理三山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』6 - 1633頁、吉川弘文館、1963年
  • 芳賀登一番ヶ瀬康子中嶌邦祖田浩一編『日本女性人名辞典』973頁、日本図書センター、1993年
  • 『続日本紀2 (新日本古典文学大系13)』岩波書店、1990年
  • 『続日本紀3 (新日本古典文学大系14)』岩波書店、1992年
  • 『続日本紀4 (新日本古典文学大系15)』岩波書店、1995年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(上)』、講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(中)』、講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟訳『続日本紀(下)』、講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 『萬葉集(六)(完訳日本の古典7)』、小学館、1987年

関連項目

編集