劉敏 (元)

モンゴル帝国の漢人

劉 敏(りゅう びん、生没年不詳)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人の一人。主に第2代皇帝オゴデイ・カアンと第3代皇帝グユク・カンの治世にヒタイ(華北)方面の統治に活躍したが、その後オゴデイ家が没落すると劉敏も政治の中枢から退いた。

略歴 編集

劉敏は宣徳県青魯里の人であった。1214年甲戌[1]にモンゴルの金朝侵攻が始まり、チンギス・カン率いる本軍が山西地方に進出した時、劉敏は僅か12歳であった。劉敏は父母に従って徳興の山に逃れたが、モンゴル兵が至ると父母は劉敏を残して去り、これを憐れんだモンゴルの大将によって拾われ養育されたという。ある日、チンギス・カンが諸将を集めて行営(オルド)で宴を開いた際、チンギス・カンは養父に連れられてきた劉敏の容貌を見て気に入り、自らのケシクテイ(宿衛) に入れた。そこで劉敏はモンゴル語を学び、更に2年のうちには諸国語に通達したため、チンギス・カンはこれを嘉してウチュゲン(玉出干)の称号を授け、奉御としたという[2]。また、チンギス・カンの中央アジア遠征が始まった際にもこれに同行している[3]

1223年癸未)、安撫使の地位を授かり、燕京路の徴税・漕運・塩場・僧道・司天を担い、中央アジアから連れ帰った工匠1千人余りと山東・山西で徴収した兵を合わせた軍団を立て燕京に駐屯した。更に二つの総管府を立てて劉敏の従子2人を府長とした。この頃、契丹人で弓矢を持って人民から掠奪を行う者たちの首魁を処刑して晒す、豪民が良民を奴隷とするのをやめさせるなどの功績を残している[4]

1229年己丑)、オゴデイ・カアンが即位すると行宮の幄殿を改造した。1235年乙未)、新首都のカラコルムとその中心である万安宮が建設されると、宮闈司局が設立され、ジャムチ(駅伝)の管理などを行った。1241年辛丑)春、行尚書省の地位を授かり、中央アジア方面から帰還したヤラワチとともに漢民(ヒタイ)の統治を担うことになった[5]。しかし、1246年丙午)にオゴデイ・カアンが死去すると国政を掌握したドレゲネとヤラワチが対立し、その一環として劉敏はヤラワチの配下に流言でもって誣告を受けた[6]。中書左丞相粘合重山・奉御李簡らの調査によって劉敏の無実が証明されるとヤラワチは失脚し、代わってヒタイ地方の統治には劉敏とアブドゥッラフマーンが担うことになった[7]

1251年辛亥)6月にモンケ・カアンが即位すると召し出され、ヤラワチとともに政治を任された。1254年甲寅)、劉敏は自らの息子の劉世亨を自らの代わりとすることを申し出、モンケはこれを許して劉世亨に銀章・金虎符を授け、タタルタイというモンゴル名を与えた[8]。ただし、モンケは即位直後に自らと対立したオゴデイ家に属する者達を多数処刑しており、劉敏の引退もモンケの処罰を逃れるための自発的なものであったとする説がある[9]。モンケ・カアンの南宋親征が始まり、陝西地方まで至ると、劉敏は病の身をおしてモンケ・カアンに謁見した。劉敏はモンケに南宋親征の困難さを説いてこれをやめさせようとしたが、モンケは劉敏の意見を採り上げなかったため、劉敏は諦めて隠居生活に戻ったという。その後、モンケが遠征先で急死し弟のクビライが即位すると入見したが、それから程なくして燕京にて4月に59歳で亡くなった[10]

脚注 編集

  1. ^ 劉敏の伝記を記す大丞相劉氏先塋碑神道碑は劉敏がモンゴル軍に拾われた歳を1214年(甲戌)の事と明記するが、何故かこれを元にする『元史』劉敏伝は1212年(壬申)のこととしている(牧野2012,841頁)
  2. ^ この「奉御」は、漢文史料上で「内省」と呼ばれた機関に属するものであったとみられる(牧野2012,225-226頁)
  3. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝,「劉敏字有功、宣徳青魯里人。歳壬申、太祖師次山西、敏時年十二、従父母避地徳興禅房山。兵至、父母棄敏走、大将憐而収養之。一日、帝宴諸将於行営、敏随之入、帝見其貌偉、異之、召問所自、俾留宿衛。習国語、閲二歳、能通諸部語、帝嘉之、賜名玉出干、出入禁闥、初為奉御。帝征西遼諸国、破之、又征回回国、破其軍二十万、悉收其地、敏皆従行」
  4. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝,「癸未、授安撫使、便宜行事、兼燕京路徴收税課・漕運・塩場・僧道・司天等事、給以西域工匠千餘戸、及山東・山西兵士、立両軍戍燕。置二総管府、以敏従子二人、佩金符、為二府長、命敏総其役、賜玉印、佩金虎符。奏佐吏宋元為安撫副使、高逢辰為安撫僉事、各賜銀章、佩金符;李臻為参謀。初、耶律楚材総裁都邑、契丹人居多、其徒往往中夜挾弓矢掠民財、官不能禁、敏戮其渠魁、令諸市。又、豪民冒籍良民為奴者衆、敏悉帰之。選民習星暦者、為司天太史氏;興学校、進名士為之師」
  5. ^ 牧庵集』巻21懐遠大将軍招撫使王公神道碑に金滅亡後のこととして「劉某以大丞相行尚書省于燕。亦遣(王)公(興秀)、括祁・蠡・深三州匠、為局使」とある劉某は劉敏のことを指すと見られる(牧野2012,165頁)
  6. ^ なお、この事件は『元史』巻153列伝40劉敏伝ではオゴデイ存命時のことであるかのように記されるが、他の諸史料では一致してオゴデイ没後にアブドゥッラフマーンとの政争に敗れたヤラワチが失脚したとしており、劉敏伝の記述もやはりオゴデイ没後のことに改めるべきであると指摘されている(牧野2012,170頁)
  7. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝,「己丑、太宗即位、改造行宮幄殿。乙未、城和林、建万安宮、設宮闈司局、立駅伝、以便貢輸。既成、宴賜甚渥。辛丑春、授行尚書省、詔曰『卿之所行、有司不得与聞』。俄而牙魯瓦赤自西域回、奏与敏同治漢民、帝允其請。牙魯瓦赤素剛尚気、恥不得自専、遂俾其属忙哥児誣敏以流言、敏出手詔示之、乃已。帝聞之、命漢察火児赤・中書左丞相粘合重山・奉御李簡詰問得実、罷牙魯瓦赤、仍令敏独任。復辟李臻為左右司郎中、臻在幕府二十年、参賛之力居多。丙午、定宗即位、詔敏与奥都剌同行省事」
  8. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝,「辛亥夏六月、憲宗即位、召赴行在所、仍命与牙魯瓦赤同政。甲寅、請以子世亨自代、帝許之、賜世亨銀章、佩金虎符、賜名塔塔児台。帝諭世亨以不従命者黜之。又賜其子世済名散祝台、為必闍赤、入宿衛」
  9. ^ 牧野2012,173-174頁
  10. ^ 『元史』巻153列伝40劉敏伝,「帝伐宋、幸陝右、敏輿疾請見、帝曰『卿有疾、不召而來、将有言乎』。敏曰『臣聞天子出巡、義当扈従、敢辞疾乎。但中原土曠民貧、労師遠伐、恐非計也』。帝弗納、敏還、退居年豊。世祖南征、過年豊、敏入見、諭之曰『我太祖励精図治、見而知者惟卿爾。汝春秋高、其彙次以為後法』。未幾、病帰于燕、夏四月卒、年五十九」

参考文献 編集

  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 前田直典『元朝史の研究』東京大学出版会、1973年