劉歆 (驍騎将軍)
中国の新代から後漢時代初期にかけての武将
劉 歆(りゅう きん、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は細君。鉅鹿郡昌城県(河北省深州市)の人。雲台二十八将の一人の劉植の従兄。
事跡
編集姓名 | 劉歆 |
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時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 細君(字) |
本貫・出身地等 | 冀州鉅鹿郡昌城県 |
職官 | 偏将軍〔劉秀〕→騎都尉〔劉秀〕
→驍騎将軍〔劉秀(後漢)〕 |
爵位・号等 | 列侯〔劉秀(後漢)〕
→浮陽侯〔後漢〕 |
陣営・所属等 | 光武帝(劉秀) |
家族・一族 | 従弟:劉植・劉喜 |
河北戦役の折、従弟の劉植が光武帝に帰順すると劉植は驍騎将軍に、劉歆は劉植の弟劉喜とともに列侯に封じられ、偏将軍に任命された。
建武5年(29年)、騎都尉となっていた劉歆は耿弇に従って斉征伐に参加する。耿弇が小城に籠もり、張歩を迎撃した際に城の前面に出て攻撃を受け止め、所謂「ハンマーと金床」戦術における金床の役割を果たす。劉喜が没するとその軍を継ぎ、浮陽侯に封じられ、驍騎将軍に任命された。
建武6年(30年)春、建威大将軍耿弇・虎牙大将軍蓋延らに従い、公孫述征伐に参加するも、裏切った隗囂に敗北。
建武11年(35年)春、征南大将軍岑彭・大司馬呉漢に従い誅虜将軍劉隆・輔威将軍臧宮とともに南陽・武陵・南郡の兵を発し、桂陽・零陵・長沙から補給を受け、約六万の軍の部将として公孫述征伐に参加する。岑彭に率いられて江関に入り、現地民を鎮撫した。
以後、史書にその名前は見えないが、国は続いたと伝えられる。
参考文献
編集- 『後漢書』列伝11劉植伝
- 同列伝7岑彭伝
- 同列伝9耿弇伝