劉碩(りゅう せき、生没年不詳[1])は、後漢皇族。平原王。劉石とも。桓帝の弟[2]で、他兄弟に勃海王劉悝や益陽公主などがいる。

経歴 編集

父の劉翼は河間王の家系であったが、鄧太后に気に入られ平原王の位を継承した。しかし、121年に太后が死去すると讒言により国が除かれ、蠡吾侯となっていた。その父が亡くなると兄の劉志が蠡吾侯を継いだ。

本初元年(146年)、質帝が大将軍梁冀により殺害されると、劉志が帝位に就けられ(桓帝)、劉碩は都鄉侯、劉悝は蠡吾侯を継承した。建和2年(148年)4月[3]に劉碩は平原王に封じられ、博陵(父の陵墓)に留まり父の祭祀を奉じた。152年、桓帝の生母・孝崇皇后が死去すると喪主を務めた。

劉碩は酒を好み過失が多かったため、桓帝は馬貴人(父の夫人の一人)に平原王の家事を取り仕切るよう命じていた。

劉碩の時代の平原相には史弼、陽球、陳紀荀爽劉備、劉琬らが記録に残る。しかし、建安11年(206年)に曹操が斉、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、平原の八か国を除いたため廃絶した。

脚注 編集

  1. ^ 桓帝の弟であるため生年は132年以降。
  2. ^ 『後漢書』『章帝八王列傳』にのみ「桓帝の兄」という記述があるが、他の個所は「弟」とあり、『東観漢記』でも「桓帝は蠡吾侯翼の長子である」とする。
  3. ^ 『後漢紀』《後漢孝桓皇帝紀上卷第二十一》

参考文献 編集

  • 『後漢書』孝獻帝紀第九
  • 『後漢書』皇后紀第十下
  • 『後漢書』章帝八王列傳第四十五