劉 英(りゅう えい、? - 312年)は、漢(後の前趙)の昭武帝劉聡の貴嬪(側室)。字は麗芳。皇后に追封され、武徳皇后(ぶとくこうごう)の諡号が贈られた。父は漢の太保(元西晋大司馬司馬冏の属僚)であった劉殷。武宣皇后劉娥の姉である。美女として有名であった。また、政治に通じていた。

武徳皇后
前趙の追封皇后

全名 劉英
死去 嘉平2年(312年
配偶者 昭武帝
氏族 姫姓劉氏(宗室
父親 劉殷
劉娥
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生涯 編集

312年1月、呼延皇后が亡くなると、劉聡は劉英・劉娥を始め、劉殷の孫娘を後宮に入れようとしたが、同じ劉姓であったことから末弟の劉乂が兄を固く諫めた。劉聡は年老いた伯父の太宰劉延年・太傅劉景にこのことを問うと、劉景らは「臣は太保の劉殷が王室系の劉の康公(姫季子)の子孫であると聞いております。陛下の家系とは違っておりますので、何の問題もないでしょう」と答えた。劉聡は大いに喜び、大鴻臚李弘を遣わして劉英と劉娥を左右の貴嬪とし、昭儀より上位に置いた。また、劉殷の孫娘4人を貴人とし、貴嬪に次ぐ位とした。6人の劉氏への寵愛は後宮を傾けるほどであり、劉聡はめったに外へ出なくなり、政務を顧みなくなった。国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪となった劉英がこれを認可した。

6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。だが、張皇太后が貴人の張徽光を皇后に立てるよう望んだため、やむなく従った。まもなく劉英は没した。

313年3月、張皇太后が崩じ、2日後に張徽光も急死した。同月、劉聡は劉英の妹の劉娥を皇后に立て、劉英も皇后に追封し、した。

伝記資料 編集