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加藤 重次(かとう しげつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将近江国甲賀に住む渋谷氏の出自で、加藤清正忠広家老加藤十六将の一人。食禄6,500石、後に16,722石に加増。

 
加藤重次
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長18年(1613年
改名 渋谷重次→加藤重次
別名 與左衛門、與左衛門尉、与左右衛門
官位 従五位下大和
主君 六角氏佐々成政加藤清正忠広
氏族 渋谷氏
兄弟 重次井上吉弘
重季(與平次)、娘3人

生涯編集

初め近江の六角氏に従うが六角氏滅亡後、富山城佐々成政の重臣として仕え、成政が隈本城主として肥後国に入封すると、実弟井上吉弘と共に肥後に入る。佐々成政が肥後国人一揆への不手際により切腹させられると、加藤清正に仕えた。

清正からの信任厚く、豊臣秀吉の下命もあって清正から加藤の名字を賜り、佐敷城城代を任された。また清正に従い天草一揆を鎮圧している。

朝鮮の役でも主君・清正に付随。ここでも武勲を挙げ、武勇に優れたところを示している。文禄の役では清正軍の一員として京城に入り、海汀倉の戦いでの朝鮮軍に大勝に寄与。咸鏡道を占領すると、端川城城代に任じられた。

慶長の役では講和破談後の主君・清正は、加藤重次、飯田直景森本一久、井上吉弘(梅北一揆を鎮圧後に渡海し合流)等側近500名で未完成の蔚山城に入城。乏しい食料の中、軍の大軍を撃破した(蔚山城の戦い)。

清正の死後は、子である忠広を支える大老5人の一人となった。後に隠居して子の重季(重季後、正系は断絶)に佐敷城代を譲る。佐敷に前主・清正の福報祈願の為実照寺を再興し、また移墓を建立する。他に重次、弥一郎(実父母ハ渋谷氏)の実母は佐敷に来迎寺を再興する。後に重季の従弟(加藤清正の叔父喜左衛門清重の孫)與七郎(母は加藤越後守正直(万兵衛)の娘)を二代藩主加藤忠広の命で養嗣子に貰い受ける。子孫は明治以降も続いた。

関連項目編集