蔚山城の戦い(ウルサンソン[1]のたたかい、いさん[2]じょうのたたかい)は、1598年1月29日慶長2年12月22日)から同年2月9日(慶長3年1月4日)に慶長の役朝鮮連合軍と日本軍との間で行われた交戦(蔚山城の構造については蔚山倭城を参照)。当項の日付は和暦を用いるものとする。

第一次蔚山城の戦い 編集

第一次蔚山城の戦い
 
戦争慶長の役
年月日慶長2年12月22日から慶長3年1月4日1598年1月29日から2月9日
場所朝鮮国慶尚道蔚山
結果:日本軍の勝利[3]
交戦勢力

  朝鮮国
  豊臣政権
指導者・指揮官
明軍 楊鎬 麻貴
朝鮮軍 権慄
籠城 加藤清正 
援軍 毛利秀元 
戦力
明軍44,800[4]
朝鮮軍12,500
合計57,000[5][6]
籠城10,000[7]
援軍13,000[8]
(諸説あり)
損害
明史
戦死20,000[9]

[10]

明史紀事本末
戦死20,000 [11]

浅野家文書
遺棄死体10,386[12]

朝鮮王朝実録・宣祖実録
戦死3000~4000人[13]
数万[14]
10,000[15]
1,000[16]

朝鮮王朝実録
籠城兵力生存三千

[17][18]

文禄・慶長の役

背景 編集

文禄の役後、日明の間で続けられた和平交渉は決裂し、再征が決定された。慶長2年(1597年)の任務として、全羅道忠清道を成敗すること、これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城することが命じられていた[19]

慶長の役が始まると釜山周辺に布陣していた日本の諸軍は、明・朝鮮軍を破って全羅道・忠清道に進撃し、この二道を成敗するという目標を達成する。そして次の任務である築城を開始するために朝鮮南岸域に帰還した。

釜山周辺には、既に文禄期から倭城群が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から、蔚山城、梁山城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八城である。

これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地(隣接拠点西生浦倭城の北約15km)には、加藤清正自らが縄張りを行い、慶長2年(1597年)11月中旬から、毛利秀元浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心として、久留の計をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始める。

城地に選ばれた島山は蔚山湾の最奥で、南には太和江が流れている。現在は長年に亘る土砂の堆積と近年の埋め立てにより内陸化しているが、当時は海のすぐ近くに位置しており、城下には兵船を着岸させることができた。

築城を急ぐ日本軍に対し、このころ明・朝鮮では、加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、蔚山を攻めて清正を捕らえたなら日本全軍の士気をくじくことができると考え、明将楊鎬麻貴らに率いられた明軍および、都元帥権慄率いる朝鮮軍、合わせて約56,900(うち朝鮮軍12,500人)の兵を建設中の蔚山倭城に差し向けた。

  • 蔚山倭城に向かった明・朝鮮軍 計57,000
    左協 12,600(馬・歩兵)李如梅(副総兵)
         4,000(朝鮮軍) 李時言(忠清兵使)
    中協 11,700(馬・歩兵)高策 (副総兵)
         5,200(朝鮮軍) 成允門(慶尚右兵使)
    右協 11,600(馬・歩兵)李芳春(副総兵)
         3,300(朝鮮軍) 鄭起龍(慶尚左兵使)
    本軍  8,500(兵)   楊鎬(経理)、麻貴(総兵)

「日本戦史・朝鮮役」より[1]

蔚山襲撃 編集

蔚山倭城では、約40日の突貫工事で完成が目前になると、築城が担当であった毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かっていた。また加藤清正は西生浦に出張中で蔚山にはおらず、浅野幸長・太田一吉らが城外の仮営に駐屯していた。そこへ12月22日、明軍の先鋒擺寨指揮下の軽騎兵1000に急襲され、毛利家家臣の冷泉元満阿曽沼元秀都野家頼が討ち死に、仮営は焼き払われた。当初、浅野幸長らは仮営からの銃声を白鳥狩をしていると思い込んでいたために救援に遅れることになる。敵の襲来の報が入り浅野幸長・太田一吉が反撃に移るが、擺寨が偽装退却で浅野勢をおびき寄せ、楊登山李如梅らが三方から合撃したので浅野勢は苦戦に陥った。460余の戦死者を出し太田一吉も負傷するほどの激戦の後、蔚山城惣構内に撤退して籠城戦が始まる(『清正高麗陣覚書』による籠城兵力は10,000人)。

攻防戦 編集

 
籠城戦の指揮をとった加藤清正の像(名古屋妙行寺)

蔚山城が襲撃を受けたとの報を西生浦で聞いた加藤清正は即座に兵船に座乗して蔚山に帰還、城内に入った。これより籠城する日本軍は加藤清正の指揮下に入った。23日、未完成であったの惣構を明・朝鮮軍が突破し、660余の戦死者を出した日本軍は内城に後退、日暮れまでに明・朝鮮軍を撃退した。 朝鮮王朝実録での楊鎬の説明によれば、明軍はこの日までの攻撃で日本軍1300人を斬首し、焼死溺死したものは数えきれない(数千人)としている。 [20][21]

12月24日早朝、明・朝鮮軍は四面から蔚山内城を攻撃したが、城を守る日本軍から無数の銃弾を浴び、多数の死傷者を出して退却した。25日、楊元は朝鮮軍の都元帥権慄を呼び「今日、明軍は休息するが、朝鮮軍は城を攻めよ」と命令する。権慄はこれに従い朝鮮軍単独による城攻めを行ったが、銃撃で多数の死傷者を出し退却した。26日は終日風雨だったが雨を冒して進攻、27日もまた軍を進めたが同様に死傷者を出した。28日には柴草を集め、城を火攻めにしようとしたが、明軍・朝鮮軍ともに多数の死傷者を出し、城の下に達することも出来ずに退却した[22]

このように、連日攻城戦を展開する明・朝鮮連合軍に日本軍は大きな損害を与え続け[23]攻撃を頓挫させた。しかし、城の完成直後で兵糧の備蓄も充分でなく、日本軍側は厳しい籠城戦を強いられることになった。冬の寒さと飢えとにより倒れる者が続出し、落城は時間の問題となる。29日には、城を明け渡せば和睦するとの使者が明・朝鮮連合軍の陣営から派遣された。その2名の使者は、降倭将の岡本越後守と田原七左衛門であった。清正は開城には応じる気はなかったが、捕虜交換の交渉には前向きで、城外で明将との会見に臨もうとして浅野幸長に諫止された。結果的に、この一連の交渉が援軍到着までの時間稼ぎになった。蔚山城包囲戦の最中、明・朝鮮軍は日本の援軍が大挙して到来することを恐れていた[24]が、この恐れは現実のものとなる。

援軍到来 編集

日本軍の蔚山倭城への赴援部隊(1月2日) 総勢約13,000
「日本戦史・朝鮮役」より
一番隊 計4,550
1,600(鍋島直茂、勝茂)
150(毛利吉成、毛利勝永、秋月種長、高橋元種、伊東祐兵、相良頼房)
2,200(蜂須賀家政)
600(黒田長政)
軍監(早川長政、垣見一直、熊谷直盛、竹中重利)各々小部隊を率いて之に続く
二番隊 計3,770
70(加藤嘉明)
50(中川秀成)
500(生駒一正)
150(脇坂安治)
3,000(山口宗永)
未詳(池田秀雄)
三番隊 計3,900
3,900(毛利秀元)
水軍 兵数未詳
長宗我部元親、池田秀氏、加藤清正の兵

一方、12月26日には毛利秀元と小早川秀秋に代わって小早川勢の指揮を執る山口宗永[25]が、27日には黒田長政・安国寺恵瓊、28日には毛利秀元、29日には蜂須賀家政・鍋島直茂勝茂父子・加藤嘉明ら日本側の援軍が西生浦に続々と到着する。[26]また海上には長宗我部元親らの水軍が到来した。このため明・朝鮮軍は早急に蔚山城を陥落させる必要に迫られた。その夜、楊鎬麻貴は全軍を自ら督戦して最後の攻城戦を開始するが、敵前退却する士率を斬り捨て、さらに戦意不足の李化龍を捕縛し軍中の見せしめにしなければならない状況であった。来援を知った蔚山城兵は生気を取り戻して迎撃し、攻めかかる敵兵に銃弾を浴びせかけた。明・朝鮮軍は誰一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害を被り[27]、最後の攻城戦は失敗した。

1月4日、楊鎬麻貴は城攻めの失敗と援軍の到来により退路を失うと判断し、擺寨・楊登山・呉惟忠茅国器の4隊を後衛として逐次慶州へ撤退を開始する。

日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が先陣として明軍に向かって突撃し、続いて立花宗茂[28]は吉川隊と連携しつつ側面から追撃、黒田長政・蜂須賀家政ら日本軍諸部隊も一度に突撃した。これを受けた明軍は敗走を開始した[29][30]

明軍の内、箭灘を守っていた浙江の歩兵及び騎兵には、楊鎬・麻貴の撤退が伝わっておらず、慌てて転倒しながら逃走をはじめた。蔚山城の日本兵は山を駆け下り、一気に敵兵を討ち殺した。明軍で歩兵の生還者は多くなく、騎兵も多数の戦死者を出し、甲冑を投棄し身一つで逃走した。また朝鮮軍も多くの死傷者を出した[31]

吉川広家は明軍の一隊の退路を寸断すると、その退路を失った明兵は池のある方向へ逃亡した。日本軍はこれを池まで追い詰めて多くの敵兵を討ち取った[29]

さらに日本軍は敗走する明・朝鮮軍を30里にわたって追撃する。明軍の戦死者は無数に及び[32][33][34] 、追撃戦時における戦死者数は、軍中で隠蔽されているため正確には判らないが、或いは3,000とも、或いは4,000とも云われ、その中で参将盧継忠の一軍は後方にあったためほとんど壊滅した[13]。中国側の史料である明史によれば、この戦いで明軍は2万人が戦死する大損害を出し[35]、戦いは日本軍の勝利となった。城廻り敵死骸数の事『浅野家文書』二五五号によると、合戦後の日本側検証で各場所合計10,386人分の敵兵の遺棄死体を確認している[12]。明軍の指揮官クラスでは、遊撃楊万金戦死[36]、千総麻来戦死[37]、千総周道継戦死[38]、千総李洞賓戦死[39]、把総郭安民戦死[40]、千総王子和戦死[41]、哨総湯文瓚戦死[42]、千総銭応太戦死[43]張応元戦死、陳観策戦死[44]、遊撃陳寅負傷[45]、遊撃陳愚沖負傷[46]という損害を出している。明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した[47]

敗北した明軍では退却中に麻貴配下の韃靼兵が略奪を働くなど統制が乱れ、また朝鮮人が日本軍の味方をしたとの情報に接した明軍上層部が不審を抱くこととなった。明軍を統括する経略の邢玠1598年2月に結果を戦勝として皇帝に奏上し、万暦帝はこれを「国威、大いに彰わす」と賞賛した。しかし、軍の内部から戦死者が二万に及ぶとの報告があり [48][49]、楊鎬は戦死者は百人余りと反論した。邢玠の部下で賛画の丁応泰は、戦捷は虚報であり、経理楊鎬・提督麻貴・副総兵李如梅らは多数の兵と武器を喪失し、事実を隠蔽したことを6月に上奏した。他に遊撃陳寅周陞からの讒言もあり、万暦帝は激怒して楊鎬を更迭し、天津巡撫万世徳に代えた[50][51]

朝鮮物語(大河内秀元陣中日記)による記述 編集

大河内秀元の著書、朝鮮物語(大河内秀元陣中日記)による記述では、明軍の軍勢は80万騎だったとしている。日本側の兵数は23000、日本軍は初日の攻撃だけで18360人が戦死したと記述している。籠城による餓死凍死は896、援軍の戦死を2800と記している。明軍の討ち死にした死体は15754としている。なお大河内秀元は、小早川秀秋が援軍の主将であり、自ら13人の明軍を討ち取ったと記述しているが、実際には小早川秀秋は蔚山には出陣していないなど、記述の信頼性に問題も見られる。

関ヶ原への影響 編集

蔚山攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案(1月26日付、連署注進状)を豊臣秀吉に上申しているが、3月には秀吉の不興を蒙り却下され、僅かに黒田長政の守城が梁山から亀浦に変更されるにとどまった。

この合戦について、軍目付の福原長堯熊谷直盛垣見一直は、蔚山救援軍の陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した(「合戦をしなかった」との報告は、蜂須賀家政・黒田長政が1月4日の追撃戦に参加しなかったという報告ではなく、1月3日の前哨戦の事である。「唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候」とあるように [52]、少数の明軍部隊が太和江を越えて、高地上の日本の赴援軍に攻撃を仕掛けたときのことであり、追撃戦とは無関係であり、「追撃しなかった」などとは一切報告されていない。朝鮮王朝実録にも1月3日に日明両軍の間に小戦闘が起こったことが記されている。[53]。慶長三年正月二十五日付で秀吉は黒田長政に、蔚山城救援の功を賞する朱印状を送っており「追い討ちに数多討ち捨て候由」とあり、長政は追撃戦に参加して戦果を挙げたというのが、秀吉の認識であった。[54])。このため両者は秀吉の不興を蒙り、とくに蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて秀吉の逆鱗に触れ、領国への逼塞が命じられた。他に目付の早川長政竹中隆重毛利高政も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内に新地が与えられた。また秀吉は筑後国筑前国を石田三成に与えようとした。これは三成が辞退したものの、筑後国・筑前国における蔵入地代官に三成を任じ筑前国名島城を与えた[55]

しかし、この蔚山城救援諸将に対する処分は後の慶長4年(1599年)に石田三成襲撃事件が発生して三成が失脚すると、発言力を高めた徳川家康五大老会議を招集し、蔚山城救援諸将に「落ち度がなかったことは歴然としている」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられる。慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが起こるが、このとき蜂須賀家政・黒田長政は東軍につくことになる。

また、この際に譴責を受けた諸将の中には加藤清正なども含まれていたが、彼らは秀吉への報告を行った福原長堯の縁戚である石田三成がこの処分に関わっていると見て反発を深め、後に所謂「七将」と呼ばれる反・石田三成勢力が結成されるきっかけになったとみられており、結果的には関ヶ原の戦いの一因になった事件であったと考えられている[56]

第二次蔚山城の戦い 編集

第二次蔚山城の戦い
戦争慶長の役
年月日慶長3年9月下旬から10月初め(1598年10月下旬から11月初め)
場所朝鮮国慶尚道蔚山
結果:日本軍の勝利[57]
交戦勢力

  朝鮮国
  豊臣政権
指導者・指揮官
明軍 麻貴
朝鮮軍 金応瑞
籠城 加藤清正 
戦力
明軍24,000
朝鮮軍5,514
合計29,500人[58]
日本軍10,000
損害
損害大[59]
朝鮮軍 宣居怡(陣亡)
不詳
文禄・慶長の役

前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となり、慶長3年(1598年)8月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始する。東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。この内麻貴総兵が指揮する東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人[59]。は9月21日(以下和暦)に慶州を出発。22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない(日本戦史朝鮮役 P397[2])。攻略の目処も立たず、さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。

『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した[60][61]

また『乱中雑録』趙慶男によると、9月18日(日付は明暦)、麻貴が明軍を率いて慶州を出撃。朝鮮軍の金応瑞が別に東萊へ進撃してから進んで蔚山倭城を攻撃開始し、防柵などを焼いた。しかし日本軍の攻撃により明軍の被害は計り知れない。清正は去年の攻撃を戦訓に防戦の準備を重ね、堅く守備を固めていたために明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した[62]

10月12日、明・朝鮮軍は慶州に到着した。

同じく慶尚道左防禦使の権応銖が都元帥の権慄に送った報告によると「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために金応瑞が東萊の温井に赴く、翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。明軍は何度も挑戦をしたが、日本軍は守りを固めて出て来ないため明軍の被害は数え切れない。包囲を一旬(約10日間)続けたが攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。

第二次蔚山城の戦いでは加藤清正が守りに徹したため、泗川倭城攻撃し島津義弘の逆襲を受けて潰走した中路軍や、小西行長順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後、兵糧を投棄しながら退却した西路軍と水軍のような混乱を東路軍ではおこすことなく比較的整然と撤退した。

朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[63]

戦後 編集

この戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去しており、その死は秘匿されたまま10月15日に帰国命令が発せられ、加藤清正は11月18日に蔚山倭城より撤退を完了して帰国した。

慶州に撤退していた麻貴は日本軍の撤退後の蔚山倭城を接収し、これを自らの戦功として報告した。このため、明では陳璘劉綎に続いて3番目に麻貴の功績が評価されている。

熊本市中央区には「蔚山町(うるさんまち)」という名の市電停留場およびバス停留所がある。加藤清正が陣取った蔚山、あるいはそこから連れてきた人々を住まわせたことにちなむとされる。電停名の韓国語表記では、「蔚山」の部分のみ外来語表記法に依らず朝鮮漢字音で読んだ「울산마치(Ulsanmachi)」が用いられている。

絵図等 編集

「朝鮮蔚山合戦之図」
「朝鮮蔚山合戦之図」は前田育徳会尊経閣文庫が所蔵する淡色彩の絵図[64]。大きさは69.5cm×68.5cm[64]。この絵図の作成時期は、関ケ原の戦い後に紀伊国和歌山に入部した浅野幸長を「紀伊守」と記していることから江戸時代初頭とみられている[64]。なお、尊経閣文庫には「朝鮮蔚山合戦之図」とは別に「蔚山図」というほぼ同じ構図の絵図もある[64]
「朝鮮軍陣図屏風」
「朝鮮軍陣図屏風」は鍋島報效会が所蔵する屏風で、本来六曲二双(四隻)であったが、江戸時代に一隻が失われ六曲三隻になっている[64]

脚注 編集

  1. ^ 『大日本分県地図併地名総覧 昭和十二年』昭和礼文社1989年12月
  2. ^ 『大辞林』第一版・第二版・第三版
  3. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13101016_002 朝鮮王朝実録・宣祖実録31年1月16日 ”○忠淸道節度使李時言、慶尙左道節度使成允文馳啓曰: "臣等將前月二十三日, 協隨天兵, 蔚山賊窟接戰形勢及二十七日再戰緣由, 已爲馳報於都元帥權慄矣。 當今月初二日, 西生浦等處之賊, 多數出來于相望遙峯, 多張旗幟, 而初三日遙峯之賊, 漸漸流來, 或飛揚於賊壘越郊, 或列立於箭灘之南山。 又以精兵五六十, 下山底, 而天兵不敢逼, 一度相戰, 均解而退, 山頂之賊, 建旗屯宿。 臣等亦以都元帥分付, 亦爲領兵, 遮截于箭灘, 其夜天兵, 且欲攻城, 造大炬, 四圍而進。 始自子夜, 天明乃罷, 而賊丸如雨, 死傷甚衆, 無一人抵城者。 初四日早朝, 遙峯及山內之賊, 各負五色之旗, 添於山頂之賊, 迤峯十里, 接肩而立, 然其衆多不過數三千, 山內之賊, 亦不過數萬。 假使衝突而相戰於平原, 則蹂躪可滅, 而自午後, 箭灘把守騎馬等, 稍稍流下, 圍賊右協之兵, 漸次解出。 賊船數十, 列泊於岸, 或有下陸者, 而亦不驅逐, 殆盡解出, 亦無伏兵之地。 令人望見, 則 天將所住, 處處起火, 皆是燒藥之氣, 而疲病之留陣者, 叫呼之聲動地, 然後始知天將之退兵, 先將步軍流出, 自領騎兵, 殿後而退。 箭灘把守浙江步兵及騎兵, 亦不知其將之已退, 終乃蒼黃顚倒而走, 山頂之賊, 魚貫而下, 一時廝殺, 步軍生還者無多, 而騎兵之被死者, 亦不知其幾, 或棄甲卸冑, 赤身而出, 我軍死傷者亦衆。 堂堂大勢, 頃刻摧折, 已死之賊, 反肆兇毒, 誠可痛哭。 臣等以都體察使分付, 據住慶州待變, 而一道之中, 可當一隅者, 慶、蔚數邑之兵, 而盡死於柴牌之戰, 責出軍糧者, 安東等六七邑之民, 而力竭於輸輓之役。 後日之事, 無復可望, 罔知所措事。" 啓下備邊司。”
  4. ^ https://zh.m.wikisource.org/zh-hant/明史/卷259#.E6.A5.8A.E9.8E.AC 明史/卷259 "鎬會總督邢玠、提督麻貴議進兵方略,分四萬人為三協,副將高策將中軍,李如梅將左,李芳春、解生將右,合攻蔚山"
  5. ^ 「日本戦史・朝鮮役」より https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/198
  6. ^ "明軍44,800人、朝鮮軍12,500人" 旧参謀本部『日本の戦史 朝鮮の役』〈徳間文庫〉 徳間書店、1995年、284頁
  7. ^ 清正高麗陣覚書
  8. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/204 「日本戦史・朝鮮役」
  9. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7320 明史/卷320 "鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬。上聞之,震怒。"
  10. ^ https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7259 明史/卷259 "諸營上軍籍,士卒死亡殆二萬"
  11. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2%E7%B4%80%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E6%9C%AB/%E5%8D%B762 明史紀事本末/卷62 "諸營上簿書,士卒亡者二萬。"
  12. ^ a b 中野等 『文禄・慶長の役』 吉川弘文館〈戦争の日本史16〉、2008年、236頁
  13. ^ a b 當日諸軍撤還之際, 水陸 倭賊 , 合兵追撃, 至于三十里之外。 唐軍死者無數, 或云三千, 或云四千, 其中 盧參將 一軍, 則以在後, 幾盡覆沒云, 而軍中諱言, 時未知其的數矣。 大抵無端撤軍, 賊乘其後, 蒼黄奔北, 自取敗衄, 弓矢、鎧仗, 投棄盈路, 以至藉寇, 安有如此痛哭之事? 言之無及。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  14. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13107015_002 『朝鮮王朝実録』”稱恤島山陣亡者, 不下數萬”
  15. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13108029_002 『朝鮮王朝実録』”丁主事言: ‘島山喪師, 至於一萬。”
  16. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13112004_004 『朝鮮王朝実録』"該數想過一千餘員名"
  17. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13102016_002 『朝鮮王朝実録』”賊益窘急, 據示降者, 與我被報者, 同稱: "城守不滿三千, 爲我砲矢所殲, 竝飢渴死者, 橫屍成堆。 僅鳥銃手二百名, 日食生米一合, 餘皆奄奄待斃。”
  18. ^ https://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=wna_13101014_008&gubun=chn 『朝鮮王朝実録』”去夜倭賊三十餘, 欲汲水出城, 金應瑞與降倭設伏, 擒五名斬五級, 問於降倭則曰: ‘城中無糧無水, 而大將則金哥、淸正, 等六將, 方在軍卒, 則萬餘名, 而皆飢癃, 不合戰用, 精兵未滿千名’ 云。”
  19. ^ (二月二十一日付朱印状『浅野家文書』等)
  20. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13102016_002 『朝鮮王朝実録』”除焚溺死者, 不可勝計, 俘斬其將校, 已一千三百有奇。”。
  21. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13012030_002 『朝鮮王朝実録』”倭賊之從水路來者, 爲天兵所趕, 飜船渰死者數千云”
  22. ^ 本月二十四日(和暦二十三日)平明, 總兵偕 高都督 進兵, 距 蔚山 十餘里駐兵。 聞左協之軍, 已爲接戰, 問于摠兵, 則曰: ‘賊有四營, 已破東營, 諸營之賊, 今日必遁云。’ 臣等親進賊營五里許 牛巖山 上望見, 則外城則已破, 但山上有小城, 甚爲堅固, 諸軍不能進。 午後, 盡招中協之兵進來, 而日暮不剋接戰。 二十五日(和暦二十四日)早朝, 諸軍四面薄城, 賊無數放丸, 天兵及我軍, 多數死傷, 而無登城破城之具, 俄而退兵。 二十六日(和暦二十五日), 楊經理 招都元帥 權慄 語之曰: ‘今日欲休天兵, 令本國軍兵進攻’ 云, 故 權慄 督諸軍進薄, 賊放丸如雨, 兵多死傷而退。 自二十六日(和暦二十五日) 夕下雨, 至二十七日(和暦二十六日)終日風雨, 諸軍冒雨進攻。 二十八日(和暦二十七日), 亦爲進兵, 死傷如前。 二十九日(和暦二十八日), 欲聚柴草, 焚燒賊營, 而天兵及我軍, 死傷甚衆, 不能進到城下, 夜二更退來。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  23. ^ 蔚山高石城堅甚我師仰攻多損傷『明史・朝鮮伝』
  24. ^ 只恐他處援兵多至。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  25. ^ 慶長三年一月十七日付小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状(『秀吉と桃山文化-大阪城天守閣名品展』大阪城天守閣1997、p205)
  26. ^ 浅野幸長蔚山籠城以下萬事覚書(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.362)
  27. ^ 其夜天兵, 且欲攻城, 造大炬, 四圍而進。 始自子夜, 天明乃罷, 而賊丸如雨, 死傷甚衆, 無一人抵城者。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  28. ^ 蔚山城救援の日本諸軍と比べて二日遅く蔚山に到着し、相備(応援隊)となる。『立花遺香』(淺川聞書)附・蔚山の後詰・十時但馬惟由覚書、立花丹後鎮久覚書)
  29. ^ a b 『清正高麗陣覚書』
  30. ^ 『立花遺香』(淺川聞書)附・蔚山の後詰・十時但馬惟由覚書、立花丹後鎮久覚書)
  31. ^ 箭灘 把守 浙江 歩兵及騎兵, 亦不知其將之已退, 終乃蒼黄顚倒而走, 山頂之賊, 魚貫而下, 一時廝殺, 歩軍生還者無多, 而騎兵之被死者, 亦不知其幾, 或棄甲卸冑, 赤身而出, 我軍死傷者亦衆。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  32. ^ 明史/卷259 明年正月二日,行長救兵驟至。鎬大懼,狼狽先奔,諸軍繼之。賊前襲擊,死者無算。副將吳惟忠、遊擊茅國器斷後,賊乃還,輜重多喪失。
  33. ^ 明史/卷238 明年正月二日,行長來援,九將兵俱潰。賊張旗幟江上,鎬大懼,倉皇撤師
  34. ^ 朝鮮王朝実録 1598”. Records of the Joseon Dynasty. 2013年8月29日閲覧。 “"蔚山之賊, 被圍日久, 援船多來泊, 又於賊窟迤西遠山, 山上盛張旗幟, 以助聲勢。 正月初三日夜間, 喧說船賊下陸, 而唐軍卒然解圍, 一時移陣。 初四日朝, 諸軍馬鳥驚魚駭, 達夜崩潰, 俱棄器械, 狼藉原陸。 臣失副摠所在, 追至安東, 亦不相逢, 姑留待候副摠之行, 而以天將接伴之臣, 奉使無狀, 至於相失, 措躬無地, 席藁待罪耳。"。”
  35. ^ 鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬『明史・朝鮮伝』
  36. ^ 楊遊撃萬金 , 中丸死於中路『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  37. ^ 千總 麻來 , 中丸身死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  38. ^ 陳遊撃寅 標下千總 周道繼 , 逢丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  39. ^ 李副摠如梅 標下千總 李洞賓 , 中丸而死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  40. ^ 麻提督 標下把總 郭安民 , 中丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  41. ^ 茅遊撃 標下千總 王子和 , 中丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  42. ^ 茅遊撃 標下哨總 湯文瓚 , 中丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  43. ^ 盧遊撃 標下千總 錢應太 , 赴戰中丸, 到王京身死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  44. ^ 張應元 、 陳觀策 等, 中丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  45. ^ 陳遊撃 乘夜, 先登攻城, 右臀中丸『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  46. ^ 陳遊撃寅 、 楊遊撃萬金 、 陳遊撃愚沖 , 竝中鐵丸『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  47. ^ 『朝鮮の役』〈徳間文庫〉298頁
  48. ^ https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7259 明史/卷259 "諸營上軍籍,士卒死亡殆二萬"
  49. ^ https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2%E7%B4%80%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E6%9C%AB/%E5%8D%B762 明史紀事本末/卷62 "諸營上簿書,士卒亡者二萬。"
  50. ^ https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷320 "上聞之,震怒。乃罷鎬聽勘,以天津巡撫萬世德代。"『明史 朝鮮伝』(楊鎬伝も参照)
  51. ^ https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷259 『明史 楊鎬伝』
  52. ^ ”一、蔚山へ唐人取り懸りに付て後巻の次第、唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候といへども、蜂須賀阿波守・黒田甲斐守、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候”『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛連署状』
  53. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13101016_002 朝鮮王朝実録 "而初三日遙峯之賊, 漸漸流來, 或飛揚於賊壘越郊, 或列立於 箭灘 之南山。 又以精兵五六十, 下山底, 而天兵不敢逼, 一度相戰, 均解而退, 山頂之賊, 建旗屯宿。"
  54. ^ (中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』p338))
  55. ^ 島津義弘・忠恒宛、五月二十六日付、福原長堯・垣見一直・熊谷直盛、連署状『島津家文書』
  56. ^ 山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4) P24-25
  57. ^ History of the Ming chapter 320 https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7320 "麻貴至蔚山,頗有斬獲,倭偽退誘之。貴入空壘,伏兵起,遂敗。"
  58. ^ 朝鮮王朝実録 31-10-12-5 http://sillok.history.go.kr/id/kna_13110012_007
  59. ^ a b 是時, 東路天兵二萬四千, 我兵五千五百十四名; 中路天兵二萬六千八百, 我兵二千二百十五名; 西路天兵二萬一千九百, 我兵五千九百二十八名; 水路天兵一萬九千四百, 我兵七千三百二十八名, 共計十餘萬。 資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  60. ^ 麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗『明史』
  61. ^ 明将・麻貴率いる明・朝鮮軍29,500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていた。立花宗茂はわずか1,000の兵を率いて救援に駆けつけ、500の兵をわけて夜襲を敢行。別の500の兵が鉄砲で攻撃し明軍の先陣5,000人を撃退し、その後は偽情報を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放した。その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引き出して分断包囲撃破。翌日、蔚山城に到着し、加藤清正を援助した。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後ともに蔚山城に入り、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛された。『立斎旧聞記』(原文では1598年5月4、5日の戦い、明将の名前は『清正記』も「梅柏」となっている)
  62. ^ 趙慶男 『乱中雑録』「麻貴退師于島。淸正自去年受圍以後。聚諸陣軍兵。并力堅守。大軍臨城。計無所出。乃即退出本道。左防禦使權應銖報元帥云。本月十九日。麻提督掩撃東萊城内温井等處之賊。二十日。移兵島山。只爇外柵。城將陷。賊丸如雨。天兵被害。不知其數。天兵日日挑戰。固守不出。不得已退師。大槩賊兵之衆。十倍於上年。城柵之險。又甚於前日。觀其兵勢。未知上策云。圍城一旬。賊勢日熾。一日李副總題送絶句于兵相云。蚌鷸持多日。王師久未旋。」
  63. ^ 『宣祖実録十月十二日条』
  64. ^ a b c d e 三鬼清一郎. “蔚山城合戦図をめぐって”. 第1部 景観に刻印された人間の諸活動の痕跡を辿る 倭城・租界(神奈川大学21世紀COEプログラム). 2023年1月26日閲覧。