北沢 五郎(きたざわ ごろう、1889年明治22年)3月15日 - 1964年昭和39年)9月29日)は、日本建築家

関東大震災後の帝都復興院技師および警視庁の行政官として、東京市の復興と整備に従事した。在職中より大学講師として後進の指導にあたり、退官後は一般の設計活動もおこなったほか、地盤沈下の原因究明と対策に先駆者としての役割を果たした。

来歴 編集

長野県長野市に生まれる。1916年(大正5年)、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。陸軍省に技手として入省する(翌年技師に昇格)。

1922年(大正11年)、警視庁技師に転任する。1923年(大正12年)には、関東大震災後に設置された帝都復興院建築局技師を兼任した。1929年(昭和4年)、警視庁保安部建築諜長となり、1936年(昭和11年)に退官。

この間、官界の外では1920年より日本大学講師(1939年まで)、1930年より東京工業大学講師(1946年まで)をそれぞれ務めた。1935年には「東京下町における杭打地形の研究」で東京工業大学より工学博士号を授与された[1]

退官と同年に、三井合名会社の技術顧問に就任し、1941年(昭和16年)、三井不動産の嘱託となる。太平洋戦争後の1948年(昭和23年)、渡辺仁と共に協同建築研究所を設立する。1953年(昭和28年)には北沢建築研究所を設立した。

賞歴 編集

  • 建築学会学術賞(1940年度、「東京の地盤沈下とその対策」)
  • 日本建築学会賞(1959年度、「東京地盤図」)

手がけた主な建築 編集

  • 佐野病院(1927年)
  • 三井別館(1952年)
  • 北越製紙(1953年)
  • 埼玉県庁舎・議事堂(1955年)

脚注 編集

参考文献 編集

  • 「追悼、名誉会員工学博士北沢五郎先生」『建築雑誌』1964年12月号
  • 『五月晴、北沢先生の思い出』北沢先生記念出版実行会、1966年
  • 伊藤ていじ『谷間の花が見えなかったとき 近代建築史の断絶を埋める松本与作の証言』彰国社、1982年