半井家

日本の医師の家系

半井家(なからいけ)は、日本の医家家系和気氏の流れを汲む。室町時代後期に半井明親(初代半井驢庵)が出て半井の家名を称したと伝えられ、その子孫は江戸幕府奥医師の長(典薬頭)を世襲する家の一つとなった。また、その一族は各地で医家として続いた。門弟で半井の名字を認められた系統もある。

半井家
家紋
十六葉裏菊[注釈 1]
本姓 和気氏
家祖 半井明親(初代驢庵)
著名な人物 半井瑞策(2代驢庵)
半井成近(4代驢庵)
半井卜養
凡例 / Category:日本の氏族

本項では、半井家と称する以前の医家和気家も含めて解説する。

沿革 編集

医家・和気家 編集

半井氏は和気氏の流れを汲む[3][4]和気清麻呂の曾孫・和気時雨(965年 - 899年)が[5][6]、外祖父である典薬頭宮利名の縁で医術を修め、天暦11年(959年)に典薬頭に任じられたことから[7]、医家としての和気家が始まった[5][6]。和気家は丹波氏とともに宮廷医師として重きをなし[5]、平安時代末期(院政期)には官医の最高位である典薬頭と施薬院使を両家が独占するようになった[8]

室町時代後期、丹波重頼の子・明重(宗鑑・半醒軒。? - 1519年[9])が和気明茂の養子となって和気家を継ぎ[9][10]、和気家・丹波家両派の医術を兼修して[9][10]典薬頭を務めた[9][10]。明重の引退後は実弟の利長(道三。? - 1507年[11])が跡を継いで典薬頭を務めた[11][10][注釈 2]

「半井」の家名は、後述の通り初代驢庵(明親)に由緒づける説明が知られている[注釈 3]が、和気明茂が宝徳3年(1451年)に従三位に叙せられた際に「半井」の家名が見られる[14]

典薬頭・半井驢庵 編集

初代半井驢庵 編集

利長の子が明親(初代半井驢庵・春蘭軒。? - 1547年[15][16])である。に渡航して時の正徳帝(武宗)の診察にあたり、銅硯1面と驢馬2頭を与えられた[15][16]。日本への帰国後、驢馬1頭を後柏原天皇に献上[15][17]。明の官服を着て驢馬に乗って参内することを許されるとともに、「驢庵」の称を与えられた[15]。また、足利義政から「菊花の紋」を与えられており[10]、これが半井家の裏菊紋の由来とされる[1][注釈 4]

京都の烏丸にあった驢庵の屋敷の井戸の水が清らかであり[4]、これを半分に区切って用いたことが「半井」の家名の由来と説明されている。『寛政重修諸家譜』によれば、半分を禁裏に提供し、半分を自家用に使用したことで、後柏原天皇から「半井」の称号(家名)を与えられたとする[4]。また、半分を製薬に用いたことから称したともされる[3]

中世から近世へ 編集

初代驢庵(明親)の二男[10]半井瑞策(光成・2代驢庵。1522年? - 1596年[18])は正親町天皇より『医心方』30巻と「通仙院」の院号を与えられた[18][17]。通仙院の院号は、剃髪号の驢庵とともに子孫に継承される。

瑞策(2代驢庵)の子の半井成信(3代驢庵。? - 1638年[19])は、徳川家康徳川秀忠に薬を調進した[19]

江戸時代の典薬頭半井家 編集

3代驢庵の孫である半井成近(4代驢庵。? - 1639年[20])は、寛永元年(1624年)に江戸に召し出され[19]、江戸幕府から相模国で1000石の知行を与えられた。最終的には祖父の知行も合わせ、1500石を知行している[19]

幕末期の典薬頭は半井広国である[21]。広国は明治維新に伴い俸禄を返上し、1901年(明治34年)に継嗣なく没した[22]

堺半井家 編集

半井家は堺でも医師の名門として続いている。和気(半井)利長は晩年は堺に隠棲し[11][23]、堺半井家では利長を始祖と位置付けている[11][23]。初代驢庵(明親)[24]や2代驢庵(瑞策)[25]もまた堺で隠棲した。

堺半井家の中興の祖とされる半井宗洙[26][27]は、牡丹花肖柏の子で[2][28]、初代驢庵(明親)の娘婿にあたる[26][27][2][注釈 5]。宗洙は建仁寺の継天戩和尚(継天寿戩[注釈 6])より「牧羊斎」の号を与えられており[30][25]、これにちなんで子孫は「牧羊斎」「卜養」の号を襲用した[30]

一般に半井卜養の名で知られる人物(「慶友」「云也」とも号した[注釈 7])は宗洙の孫で[注釈 8]津田宗及の女(栄薫尼)を娶った[30][31]。医師としてしばしば幕府に召し出されて御番医師を務める[34]一方、俳人・狂歌人として高名であり、狂歌集として『卜養狂歌集』がある[35][34]

この卜養には、長男の半井宗松(卜養)[33][注釈 9]、二男の翠巌宗珉大徳寺第百九十五世[36])、三男の半井宗珠(真伯・養竹軒[37])がおり[30]、宗珠が堺での医業を継いだ[37]。その後は半井羊菴(宗松の二男)[36]、半井瑞菴(羊菴の子)[38]、半井瑞直(瑞菴の養子。牧菴)[39]と受け継がれた。

旗本半井家 編集

『寛政重修諸家譜』には、半井宗洙の子孫で旗本になった家が記されている[2]。それによれば、牡丹花肖柏―半井宗洙(半井明親の娘婿)―慶友(古仙)―卜養奇雲―卜養慶友(宗珠・宗松)と系譜が結ばれ、卜養慶友(宗松)が江戸に召し出されて番医に列し、蔵米200俵を与えられた[2]。慶友(宗松)の長男・瑞之(卜仙・卜養)が跡を継いで奥医師まで昇ったが、元禄4年(1691年)に罪を得て三宅島に流された[2][注釈 10]

この家は、半井一族から迎えた養子の半井瑞慶が赦免を受け、10人扶持を支給されて小普請入りしている[2]。『寛政譜』編纂時の当主は、瑞慶の子の半井瑞之(卜泉)である[2]

このほかの半井家 編集

半井家は多くの分家を分出し、また門弟に半井の名字を分与した[40]

  • 京都では半井家の一族が、薬商として存続した[12]。流れを汲む企業としては、ナカライテスク[41][42]などがある。
  • 瑞策の子という半井元成(安立軒、凡泉)は、勅許を得て堺で医師となった[43]摂津国住吉郡安立町(現在の大阪市住之江区安立)は安立軒が作った町であると伝える[44]。元成の子の半井元貞は大坂上町に転居した[44]。その4代孫にあたる半井玄賢は伊予今治藩松平定基に仕え、子孫は同藩の藩医を継いだ[44]。今治藩医半井家からは江戸時代後期から明治期に国学者としても活動した半井梧庵が出ている[45][46]
  • 福井藩医に半井家がある[47][48]。半井驢庵の弟子・岡本受慶(半井為竹)が、当時越後高田藩主であった松平忠昌に1000石で召し抱えられたのが始まりである[44]。福井藩医半井家からは幕末・明治期にかけて活動した半井仲庵半井澄親子が出ており、澄の子・半井朴は京都で医業にあたった[49]
  • 対馬藩医に半井家がある。明治期の作家・半井桃水はこの家の出身である[50]
  • 久留米藩医に半井家がある。半井瑞春(常貞)が有馬家の典医になったのがはじまりと伝える[51]
  • 江戸時代後期に相馬中村藩に仕えた藩医半井宗玄(和気貞陶)は、半井家の医術を学んで半井の家名を名乗った人物である。天保の飢饉に際しては救荒書『忘飢草』を著し、藩主相馬益胤の施策もあいまって藩内から餓死者を出さなかったという。嘉永5年(1852年)には種痘を行った[52]

医心方(半井家本) 編集

典薬頭半井家に伝わった『医心方(半井家本)』は、国宝に指定されている[53]

『医心方』は平安時代初期に丹波康頼が編纂し、永観2年(984年)に朝廷に献上された日本最古の医書である。半井家本は平安時代後期に作成された、現存最古のまとまった『医心方』の写本である[53]。日本の医学史上のみならず、平安時代の日本語研究や歴史研究の上でも貴重な文化遺産と評価されている[53]。この写本は宮中に秘蔵されていたが、正親町天皇から典薬頭半井瑞策に与えられた[10][54]。下賜が行われた正確な年代や理由は不明である[54]。以後、典薬頭半井家では門外不出の家宝としてきた[54]

江戸時代中期、幕府奥医師の多紀元徳[注釈 11]は『医心方』の探索を行い、完本を所蔵しているという情報のある半井家に幕命を下して提出させ、写本を作成しようとした[54]半井成美は天明8年(1788年)の京都の大火で焼失したと主張して幕命を拒絶したが[55]、寛政2年(1790年)に『医心方』をめぐって返答があいまいなうえ、「焼失の届け出がなされなかった」として咎められ、出仕停止・閉門処分を受けた[56]。以後も多紀家は半井家の『医心方』を入手して写すべく様々に画策した[56]半井清雅の実父・北条氏昉狭山藩主)の脚気治療に多紀元簡があたった際、氏昉を言いくるめて半井家から1冊を借り出すことに成功したが、9枚を鈔写したところで氏昉が死去したために半井家に回収されてしまったというエピソードもある[56]

嘉永7年/安政元年(1854年)、半井広明は江戸に出府し、多紀元堅率いる医学館に『医心方』を提出した[57]。医学館で写本(影写)が製作され(この写本は宮内庁書陵部に伝存している[58])、安政7年/万延元年(1860年)に校刻本が発刊された[53](「安政版」とも呼ばれる[59])。原本は半井家に返却された[58]

原本は引き続き半井家が所蔵していたが、1982年に文化庁の所轄となり[59]、1984年に国宝に指定された[59][53]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、典薬頭半井家の家紋は「裏菊」「沢瀉」「五三桐」[1]。半井瑞之(卜泉)家の家紋は「十六葉単裏菊」「五三桐」[2]。千鹿野茂『家紋でたどるあなたの家系』(続群書類従完成会、1995年)p.139によれば、半井家の定紋は「十六葉裏菊」。
  2. ^ 和気(半井)家の系図には異本が多くあるという[12]。京都半井家の系図によれば室町期の同家は明茂―明重―利長―明親―瑞策[12]と継承されたとする。『寛政重修諸家譜』は茂成―明重―利長―明親―瑞策と系譜を結び、『尊卑分脈』には茂成(明茂)―尚成(時尚)―明重と記されていると補足する[10]
  3. ^ 出所は「半井先祖書」[13]
  4. ^ 天皇からは「金地裏菊の末広」を与えられた、という記述もある[10]
  5. ^ 『堺市史』(1966年)では宗洙を2代驢庵(瑞策)の弟とし、夫人は初代驢庵(春蘭軒明親)の娘・菊とする。この場合叔姪婚(おばと甥の婚姻)にあたる[27]
  6. ^ 月舟寿桂の法嗣で、建仁寺住持を務めた[29]
  7. ^ 法号は牧羊軒奇雲云也居士[31]
  8. ^ この卜養の父(古仙)も「牧羊斎」「卜養」「慶友」「云也」を号しており、しばしば混同されるという[32]。『堺市史』(1966年)では、卜養の子の宗松(やはり「卜養」の号を用いた)を俳人・狂歌人として高名な卜養としている[33]
  9. ^ 法号は牧羊軒主法眼雪嶺宗松居士[33]
  10. ^ 慶友(宗松)の二男として「義仙」が記され、「半井氏の養子」とある[2]
  11. ^ 多紀氏丹波氏の流れを汲む。

出典 編集

  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.613
  2. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第千三百八十六「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.263
  3. ^ a b 半井氏”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2023年7月19日閲覧。
  4. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.608
  5. ^ a b c 小曾戸洋. “和気時雨”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年7月19日閲覧。
  6. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.609
  7. ^ 久米幸夫 1980, p. 127.
  8. ^ 久米幸夫 1980, pp. 127–128.
  9. ^ a b c d 和気明重”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.610
  11. ^ a b c d 半井利長”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  12. ^ a b c 武田時昌「半井家の系図―古医書を語り継いできた人々」『日本医史学雑誌』第63巻、第2号、日本医史学会、2017年http://jsmh.umin.jp/journal/63-2/63-2_cover-pic.pdf 
  13. ^ 石野瑛 1937b, p. 326.
  14. ^ 石原力 2002, p. 332.
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  16. ^ a b 半井明親”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  17. ^ a b 半井瑞策”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  18. ^ a b 半井瑞策”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年7月19日閲覧。
  19. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.611
  20. ^ 半井成近”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
  21. ^ 石野瑛 1937b, p. 328.
  22. ^ 石野瑛 1937b, pp. 318, 328.
  23. ^ a b (六九)半井利長”. 堺市史 第七巻(1966年). 2023年7月19日閲覧。
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  45. ^ 愛媛面影”. 文化遺産オンライン. 2023年8月5日閲覧。
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参考文献 編集