南条 新六郎(なんじょう しんろくろう、1848年8月5日嘉永元年7月7日) - 1920年大正9年)10月7日[1][2])は、日本実業家名望家[3]。第四十国立銀行頭取や、日本製粉社長を務めた。

人物・経歴 編集

上野国館林藩執政(家老)の岡谷瑳磨介の第3子に生まれ、のちに、同格の南条家の養子となる。1871年中尉。退官後、大蔵省銀行局の簿記学講習所(のちの高等商業学校(現一橋大学)附属主計学校)で学ぶ。同窓にのちにともに日本製粉設立に参画した旧館林藩士の笠原圓蔵がいた[4][5][6]

1881年に館林町群馬県初の銀行である第四十国立銀行を設立し頭取に就任した[7]

1894年、雨宮敬次郎の事業を引き継ぎ東京製粉を設立し[8]、次いで1896年には日本製粉を設立し社長に就任した[9]。1898年には桐生町に四十銀行を発足させ第四十国立銀行の業務を移管して頭取に就任[7][4][10]

東武鉄道創立発起人および取締役、共正銀行頭取、東海生命保険取締役西武軌道取締役[4]、上毛鉄道発起人、川俣鉄道発起人、日本織物監査役なども務めた[11]

親族 編集

館林藩家老を務めた岡谷瑳磨介は父。長男は三井合名筆頭常務理事を務めた南条金雄。長女さだは三宅碩夫元東京弁護士会副会長の妻[4]

脚注 編集

  1. ^ 死亡広告 『東京朝日新聞』1920年10月8日朝刊
  2. ^ 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年、396頁。
  3. ^ 『帝国名望家大全』179頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月17日閲覧。
  4. ^ a b c d 南條新六郞 (男性)人事興信録データベース(名古屋大学)
  5. ^ 「南條新六郎インキとペンキの失策/379」名士奇聞録(国立公文書館デジタルコレクション)
  6. ^ 「南条新六郎君/28p」 (国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ a b PDF版桐生市歴史年表(2019-06-01)桐生市
  8. ^ 笹間愛史、「製粉・製油業の近代化」日本貿易振興機構
  9. ^ 「日本製粉(株)『日本製粉社史 : 近代製粉120年の軌跡』(2001.04)」渋沢社史データベース
  10. ^ 「館林第四拾國立銀行創立と頭取南條新六郎 - 群馬県最初の銀行両毛地区実業界の礎を築いた偉人」紀伊國屋書店
  11. ^ 恩田睦「上武鉄道の設立活動と鉄道実務者」『人文社会論叢. 社会科学篇』第31号、弘前大学人文学部、2014年2月、115-129頁、CRID 1050001202544329600hdl:10129/5160ISSN 1345-0255 

参考文献 編集

  • 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。


先代
設立
日本製粉社長
1896年 - 1912年
次代
岩崎清七