厙狄 迴洛(しゃてき かいらく、506年 - 562年)は、中国東魏から北斉にかけての軍人本貫代郡

経歴編集

北朝における胡姓研究の権威である姚薇元武漢大学)の考証によると、厙狄氏は元々は鮮卑段部の出身であったが、帰魏の後、北方の辺境、すなわち北鎮に置かれていた[1]。また、『魏書』に「次南厙狄氏,後改為狄氏」とあるが、北斉時代においてまた厙狄の姓氏があるのは、当時胡姓が再び流行していたことを物語る[1]

はじめ爾朱栄に仕えて統軍となった。528年孝荘帝の擁立に協力し、別将となり、毋極県伯の爵位を受けた。葛栄を討ち、都督に転じた。530年、爾朱栄が殺害されると、爾朱兆に属した。531年高歓が信都で起兵すると、厙狄迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。532年、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、後将軍・太中大夫を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。山胡を討って、先鋒をつとめ、朔州刺史に任じられた。538年宇文泰を河陽で破り、夏州刺史に転じた。543年邙山の戦いでは、奮戦して功績を挙げた。高澄の下で、潁川を平定した。550年建州刺史に任じられた。北斉が建国されると、順陽郡王に封じられた。561年、朔州刺史に転出し、博陵郡を食邑とした。562年太尉公・太子太師となった。2月、で死去した。享年は57。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・定州刺史の位を追贈された。

厙狄迴洛墓の発見編集

1973年山西省寿陽県にて厙狄迴洛の陵墓が発掘され、貴重な文物・壁画などが発見されている。

妻子編集

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  • 斛律昭男(513年 - 545年、斛律可知陵の娘)
  • 尉嬢嬢(尉天生の娘)

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  • 厙狄光先
  • 厙狄天智

脚注編集

伝記資料編集

  • 北斉書』巻19 列伝第11
  • 北史』巻53 列伝第41
  • 斉故定州刺史太尉公厙狄順陽王墓誌銘(厙狄迴洛墓誌)
  • 斉故厙狄氏武始郡君斛律夫人墓誌銘(厙狄迴洛妻斛律昭男墓誌)
  • 斉故郡君尉氏墓誌銘(厙狄迴洛妾尉嬢嬢墓誌)