原口 針水(はらぐち しんすい、1808年9月22日文化5年8月3日)- 1893年明治26年)6月12日)は、幕末から明治時代の浄土真宗の僧である[1][2]

経歴・人物 編集

肥後山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市光照寺の密道の子として生まれ[1][2]、幼年期から筑前博多にある万行寺の住職だった曇龍の門人となる[1][2]。後に彼から真宗学を学んだが[2]、その後の1862年文久2年)にはキリシタンの隆盛地だった長崎にて宣教師からキリスト教についても学んだ[1][2]

しかし明治維新後の1872年(明治5年)に大教院の教導職にあたったことで[1]、自身が学んだ経験のあるキリスト教を排撃する[1]1884年(明治17年)には西本願寺の第22世法主だった大谷光瑞に仕え[2]、彼の真宗学の指南にあたった[2]1891年(明治24年)には龍谷大学の前身である同寺の大学林が規則改革したことにより[2]、同学校の総理事務取扱も兼任する[1][2]。その後は仏教以外の幅広い知識を深め[2]神道等の他宗教および他宗の仏教学者と論争しつつ真宗学の高揚に尽力した[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g 原口針水”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年2月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 原口針水”. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版). 2024年2月19日閲覧。

外部リンク 編集