古谷 眞二(ふるや しんじ、1922年2月24日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少佐

古谷 眞二
Furuya Shinji
生誕 (1922-02-24) 1922年2月24日
日本の旗 日本 東京都
死没 (1945-05-11) 1945年5月11日(22歳没)
日本の旗 日本 南西諸島洋上
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943年 - 1945年
最終階級 海軍少佐
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経歴 編集

1922年2月24日に東京都で生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。

1945年菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して[要出典]南西諸島へ向かう。「最期の血の一滴まで戦うのだ!」と部下に命じ[1]、自らは米国敵艦二艦に特攻・散華、二艦とも撃沈するという多大なる戦功を挙げた。享年23歳。戦死後、二階級特進で少佐となった。墓所は池上本門寺

三島由紀夫自決への影響 編集

三島事件によって決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫が、決起を起こす1ヶ月前に、江田島海上自衛隊第一術科学校教育参考館(現在の広島県江田島町にある海上自衛隊の教育資料館)を訪れた際に、特攻戦死した古谷の遺書を読み、「すごい名文だ。命が掛かっているのだから敵わない。俺は命をかけて書いていない!」と言って、声をあげて泣き出したという逸話が残る[2]。この遺書は2012年現在、靖国神社遊就館に展示されている。

脚注 編集

参考文献 編集

海軍飛行科予備学生時代の同期生 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集