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概要編集

鶴舞公園の東南に位置する丘陵で、名称は吉田禄在の別荘地があったことに由来する[1]。かつては、砦山(とりでやま)と称したという[2]。面積は5162坪[2]、標高は15メートル[3]1910年明治43年)に第10回関西府県連合共進会に際して、吉田が名古屋市に寄付したことを記念して命名された[2]。共進会開催に伴い、聞天閣・猿面茶屋・松月庵が建てられ、汎太平洋博覧会開催に伴い、美術館・温室・管理事務所等が建設された[2]1950年昭和25年)には、その跡地に10000人収容可能な野外スタジアム「鶴舞スタデイアム」が建設されたものの、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風および1961年(昭和36年)の第2室戸台風で被災し、大破している[2][4]1962年(昭和37年)に解体され、1964年(昭和39年)には野球場が設置された[2][4]

聞天閣編集

 
聞天閣

共進会において名古屋市が貴賓館として吉田山に整備したのが、聞天閣(もんてんかく・ぶんてんかく)である[5]。名称は阪本釤之助市長が詠んだ「鶴九岡に啼いて、声天に聞こゆ」という詩に由来する[5]金閣を模した建物で[5]広さが501.2m2こけら葺の純日本建築で屋根の中央には青銅製の鳳凰が飾られていたという[6]。これは共進会終了後も残されていたが、1945年昭和20年)3月19日に空襲により焼失している[5]

猿面茶席編集

 
名古屋城二の丸において復元された猿面茶席(2011年2月)

織田信長清洲城に作った茶席が、名古屋城二の丸の後庭を経て、1880年(明治13年)に門前町の商品陳列館に移設されたものが、同所の閉鎖に伴って吉田山に移ったものである[7]国宝に指定されたものの、戦災により焼失した[7]。名古屋城および徳川美術館において再建されている[7]。その名称は床柱の節の模様が猿面に似ていることによる[7]

聞天閣貝塚編集

吉田山の裾部に位置する弥生時代後期の貝塚。遺跡名はかつてこの山の中央部に建てられていた聞天閣に由来するとみられる[3]。初めて土器などの遺物が発見されたのは、1916年(大正5年)だが、本格的な遺跡発見につながったのは、1929年(昭和4年)11月27日、作業員が松の移植作業中に約1.8メートルの穴を掘ったところ、約60センチメートルのところにハマグリを主体とする大量の貝が埋まっているのを発見したことによる[3]。同じ場所からは土器も出土し、市内の研究者によって弥生土器である事が確認された[3]。なお出土した遺物のうち名古屋市立名古屋図書館に保管されていたものは、戦災によって焼失した[3]。  

脚注編集

参考文献編集

  • 『鶴舞公園』鶴舞公園振興協会・中部庭園同好会、1962年(日本語)。
  • 『昭和区誌』昭和区制施行50周年記念事業委員会、1987年10月1日(日本語)。
  • 『昭和区の歴史』名古屋国際高等学校社会科、1999年2月10日(日本語)。
  • 『新修名古屋市史 資料編 考古1』新修名古屋市史資料編編集員会、2008年3月31日(日本語)。

関連項目編集