吉田 駛馬(よしだ はやま[1]1885年明治18年〉10月25日[2][3] - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚新竹市尹

経歴 編集

吉田兼徳の二男として[1]佐賀県藤津郡山浦村(能古見村を経て現鹿島市)に生まれる[2][3]。のち本籍を東京市赤坂区に置いた[3]1912年(大正元年)渡台し、同年9月、台中庁庶課にて勤務する[3]。松岡拓殖合資会社庶務課長、新竹製糖庶務課長を経て、台中州属兼台中州郡属に任じ豊原郡に勤務し、台中州内務部地方課勤務、豊原郡庶務課長、大屯郡庶務課長、大屯郡守代理、台中州内務部地方課地方係長兼庶務課長を歴任し[2]1932年(昭和7年)4月、台北州文山郡守に就任した[3]

1935年(昭和10年)9月、新竹州中壢郡守に転じ[3]1937年(昭和12年)8月16日、新竹市尹に就任した[2]。その後、台湾拓殖新竹支店長を経て、台中州米穀納入配給組合副組合長に就任した[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c 人事興信所 1943, ヨ43頁.
  2. ^ a b c d 帝国自治協会 1938, 76頁.
  3. ^ a b c d e f 太田 1940, 313頁.

参考文献 編集