この項目では、律令制の伴部について説明しています。その他の用法については「吹部 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
『日本後紀』によると、大宝以降、吹人・角吹と注記し、番上・吹部と称してきたものだったのが、延暦15年(796年)10月に正式名称が「吹部」に統一され、定員が34名とされた、という。同時に雅楽寮のさまざまな生にならい、勘籍(採用にあたり戸籍に基づいて身元調査を行う)扱いにされた[1]。『令集解』「職員令」伴説所引の和銅2年(709年)の右大弁官宣によると、吹部たちは10月から2月までの5ヶ月間、鼓角の教習を行い、3月1日にその技能を試験する、となっている。
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