呉 均(ご きん、469年 - 520年)は、南朝梁官僚文人歴史家は叔庠。本貫呉興郡故鄣県[1]

経歴編集

生家は代々身分が低かったが、呉均は学問を好んですぐれた才能があった。沈約は呉均の文章を見て、激賞した[1]503年天監2年)、柳惲が呉興郡太守となると、呉均はその下で主簿に任じられ[1]、毎日召し出されてともに詩を賦した。呉均の文体は美麗で俗気がなく、古風なものであったため、好事家たちがこれを真似して、「呉均体」といった[1]

507年(天監6年)、建安王蕭偉揚州刺史となると、呉均は召し出されて記室を兼ね[1]、文章を管掌した。510年(天監9年)、蕭偉が江州刺史に転じると、呉均は建安国侍郎に任じられ、鎮南府城局参軍を兼ねた[1]。後に建康に召還されて、奉朝請に任じられた[1]

先だって呉均は南朝斉の歴史書である『斉春秋』の編纂を上表しており、その書が完成すると上奏した[1]武帝はその書が事実に基づいていないとして、中書舎人の劉之遴に数カ条を詰問させると、呉均はまともに答えることができなかった。そこで武帝はその書を省に下して焼かせ、呉均を免職させた。ほどなく呉均は武帝に召し出され、三皇の時代から南朝斉にいたる『通史』の編纂を命じられた。呉均は本紀と世家の草稿を書き上げたが、列伝には着手できなかった。520年普通元年)、死去した。享年は52。

呉均は范曄の『後漢書』90巻に注釈したほか、著書に『斉春秋』30巻・『廟記』10巻・『十二州記』16巻・『銭唐先賢伝』5巻・『続文釈』5巻があり、文集20巻が当時に通行した[1]

呉均は『続斉諧記』撰者とあるが、この書との詳しい関係は不明である[1]

伝記資料編集

典拠編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 先坊幸子「中国古小説訳注 : 『續斉諧記』」『中国中世文学研究』第59号、広島大学文学部中国中世文学研究会、80頁、2011年9月20日https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10504857_po_ART0010137999.pdf?contentNo=1