呉学謙

中国の政治家、外交官、第6代外交部長(1982-1988)

呉学謙(ご がくけん、簡体字:吴学谦、繁体字:吳學謙、英語:Wu Xueqian、ウー・シュエチェン、1921年12月19日2008年4月4日)は、中華人民共和国政治家外交官国務院副総理外交部長などを務めた。中華人民共和国の成立以前は、上海で喬石銭其琛・薛駒(中央党校副校長)・銭李仁・朱良(共に中央連絡部部長)・徐維誠(中央宣伝部副部長)らと学生運動を指導していた。

呉学謙
吴学谦
吳學謙
Wu Xueqian
1985年6月17日
生年月日 (1921-12-19) 1921年12月19日
出生地 中華民国の旗 中華民国 上海市
没年月日 (2008-04-04) 2008年4月4日(86歳没)
死没地 中華人民共和国の旗 中華人民共和国 北京市
出身校 曁南大学外文学部(中退)
所属政党 中国共産党
配偶者 畢玲
子女 1人

在任期間 1982年11月 - 1988年4月
最高指導者 鄧小平
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呉学謙
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 吳學謙
簡体字 吴学谦
拼音 Wú Xuéqiān
和名表記: ご がくけん
発音転記: ウー シュエチェン
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経歴

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曁南大学外文学部を中退し、その後は1939年中国共産党に入党する。1949年から新民主主義青年団(現在の中国共産主義青年団)中央国際連絡部副部長、部長を経て、1958年党中央対外連絡部局長となる。文化大革命で失脚して外交部五七幹部学校に下放されたが、1974年に同職で復活した。1978年に外交部副部長、1982年4月に外交部第一副部長に任じられる。同年8月に日本の歴史教科書の「侵略/進出」という記述をめぐる歴史教科書問題に関連して、日本の鹿取泰衛駐中国大使と会見して歴史教科書の「歪曲」を見直すよう日本政府に要求した。同年11月に外交部長に就任する。1983年6月に国務委員を兼任し、1988年に外交部長を辞任して外交担当の副総理に昇格した。1990年11月に中国政府代表として明仁即位の礼に出席した。1993年全国政治協商会議(全国政協)副主席、国際交流協会会長となり、1998年3月に政協副主席を退任・引退した。

党内では第12期と第13期党中央委員を務めた。12期五中全会で政治局委員に昇格し、第13期でも中央政治局委員だった。

2008年4月4日に病気のため北京にて死去した。86歳であった。

外部リンク

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  中華人民共和国
先代
黄華
外交部長
第6代:1982年11月 - 1988年4月
次代
銭其琛