和泉照雄
和泉 照雄(いずみ てるお、1921年(大正10年)8月20日[2][3] - 1986年(昭和61年)4月28日[2])は、日本の政治家、国会議員。参議院議員(1期)、鹿児島県議会議員(3期)。公明党に所属した[3]。
和泉照雄 いずみ てるお | |
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生年月日 | 1921年8月20日 |
出生地 | 鹿児島県垂水市 |
没年月日 | 1986年4月28日(64歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校 |
所属政党 |
(公明政治連盟→) 公明党 |
称号 |
正五位 勲三等旭日中綬章 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1977年7月10日 - 1983年7月9日 |
選挙区 | 鹿児島市区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1963年4月23日 - 1972年11月[1] |
人物
編集鹿児島県垂水市出身[2]。1937年に旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)卒業[3]。1940年に陸軍士官学校本科(54期)を卒業[2][3][4][5]。陸軍大尉で復員[4]。その後、公職追放となる[6]。
1963年、鹿児島県議会議員に当選し、3期務める[1][2][3][4](鹿児島市区選出[1])。3期目の1972年11月に県議会議員を辞職し[1]、第33回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)、第10回参議院議員通常選挙(鹿児島県選挙区)、第34回衆議院議員総選挙(旧鹿児島県第1区)に立候補するが落選。
1977年、第11回参議院議員通常選挙で全国区から立候補し当選[2][3][4]。1980年3月24日に参議院決算委員会において北朝鮮による日本人拉致問題に連なるアベック失踪事件について質問。この質疑応答においては北朝鮮という言葉は出なかったが、拉致問題に連なる議題が初めて国会で取り上げられる質問となった。
→詳細は「アベック失踪事件」を参照
1983年(昭和58年)任期満了と同時に政界を引退。
脚注
編集- ^ a b c d 鹿児島県議会事務局調査課 編『鹿児島県議会百年』鹿児島県議会、1979年7月、76-78頁。
- ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』51頁。
- ^ a b c d e f 『現代人物事典 出身県別 西日本版』サン・データ・システム、1980年6月、1870頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』248頁。
- ^ 『陸軍士官学校』246頁。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、48頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』第17778号11-12頁 昭和61年5月21日号
参考文献
編集- 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。