堀内 忠司(ほりうち ちゅうじ、1849年嘉永2年4月[1]) - 1920年大正9年)12月5日[1])は、明治時代の政治家衆議院議員(1期)。

経歴

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大和国忍海郡南花内村(奈良県忍海郡忍海村大字南花、南葛城郡忍海村、北葛城郡新庄町を経て現葛城市)出身[2]1875年(明治8年)4月、忍海郡小区長となり、大和国域が堺県へ編入されると1878年(明治11年)同県第四大区一小区長に転じる[2]1880年(明治13年)郡区改正に伴い高市葛上葛下・忍海郡役所書記に任じ、1882年(明治15年)2月、同職を辞した[2]1884年(明治17年)6月、大阪府会議員に挙げられ、減租請願委員などを務めたのち、1887年(明治20年)奈良県会議員に当選し[3]、同常置委員、副議長、議長を務めた[1]。ほか、忍海村会議員、忍海村長、南葛城郡会議員、郡農会長などを歴任した[1]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では奈良県第2区から出馬し当選[1]弥生倶楽部に属し衆議院議員を1期務めた[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 衆議院、参議院 編 1962, 445頁.
  2. ^ a b c 篠田 1891, 234頁.
  3. ^ 篠田 1891, 234-235頁.

参考文献

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