增田又右衞門

日本の教育者
増田又右衛門から転送)

增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年明治10年〉2月8日 - )は、日本教育者位階従六位勲等勲六等の「增」は「増」の旧字体であり、の「衞」は「衛」の旧字体であるため、增田 又右衛門[1]増田 又右衞門増田 又右衛門[2]、とも表記される。

ますだ またえもん

增田 又右衞門
『山梨靜岡縣總覽』に
掲載された肖像写真[1]
生誕 1877年2月8日
国籍 日本の旗 日本
出身校 静岡師範学校卒業
職業 教育者
增田甚藏(
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北浜高等女学校校長静岡県小笠郡視学などを歴任した。

概要

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静岡県出身の教育者である[1]北浜高等女学校校長に就任し[1]、小笠郡女子青年団の団長を務めるなど[1]、静岡県の女子教育の発展に尽力した。

来歴

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生い立ち

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1877年(明治10年)2月8日、增田甚藏の長男として生まれた[1]。松芳学舎の門を叩き[1]国学漢学を学んだ[1]。さらに静岡県師範学校に進学し[1][† 1]、これを卒業している[1]。また、皇典講究所においても学んでいる[1][† 2]

教育者として

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小学校の訓導として採用され[1]、のちには校長に昇任し[1]、14年間にわたって勤務した[1]。さらに北浜高等女学校にて校長に就任し[1][† 3]、8年に亘って在任した[1]。以降は小笠郡において視学に就任し[1]、11年に亘って務めていた[1]。これまでの功労により、従六位に叙され[1]勲六等を受勲している[1]

小笠郡女子青年団においては団長を務めるなど[1]、引き続き静岡県の女子教育の振興に尽力した。また、静岡県においては史蹟名勝天然記念物調査委員に任じられていた[1]。同様に、浜松市においては史蹟調査事務嘱託に任じられていた[1]

人物

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教育家としてだけでなく、郷土史家としても知られていた[4]。また、北浜高等女学校の校歌の作詞も手掛けていた。

家族・親族

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又右衞門は静岡県小笠郡土方村に在住していたが[1]戦国時代末期の增田家は遠江国佐野郡増田村に住んでいた[1][† 4]。その頃の增田家は山内一豊の客臣だったとされる[1]。しかし、山内一豊が遠江国から土佐国に移封されることになり、その際に增田家は元亀天正より縁のある旧高天神城付近に移って[1]郷士となったという[1]。それ以降、增田家は同地を拠点とし、江戸時代には名主も輩出している[1]

略歴

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著作

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編纂

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  • 増田又右衛門・増田実編『高天神城戦史』更生舎、1935年。全国書誌番号:47008683
  • 増田又右衛門・増田実共編『高天神城戦史』高天神城戦史研究会、1969年。全国書誌番号:73009439

脚注

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註釈

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  1. ^ 静岡県師範学校は改組され、1914年に静岡県静岡師範学校が設置された。
  2. ^ 皇典講究所は1946年に解散した。
  3. ^ 北浜高等女学校は、笠井高等女学校と統合され[3]、1947年に静岡県立浜名高等女学校が設置された[3]
  4. ^ 浜松県佐野郡増田村は、道脇村、馬喰村と合併し、1875年に葛川村が設置された。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 內外新聞通信社著作『山梨靜岡縣總覽』內外新聞通信社、1937年、512頁。
  2. ^ a b 「増田, 又右衛門, 1877-」『増田, 又右衛門, 1877- - Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス)国立国会図書館、1996年4月5日。
  3. ^ a b 浜名高校の沿革(歴史)』。
  4. ^ 日本經濟史硏究所編『鄕土史家名簿』日本經濟史硏究所、1934年、36頁。

関連項目

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外部リンク

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