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高天神城の戦い

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高天神城址の遠景

高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)は、武田勝頼徳川家康の間で戦われた高天神城の2度の攻城戦を指す。

概要と前史編集

高天神城は元は今川氏の支城であったが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興は徳川氏に付いた。遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点であった。

武田氏は駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし始め、そのため徳川氏とは小競り合いが続く。元亀2年には、武田信玄が2万5000といわれる大軍を率いて三河・遠江に侵攻し、その際に高天神城を攻め同日撤退したといわれる[1]。その翌元亀3年の西上作戦における遠江侵攻では、高天神城と徳川氏の本拠点・浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城が陥落し(二俣城の戦い)、高天神城は孤立することになる。しかし、この時点ではまだ徳川氏の拠点として機能していた。

信玄の死後、後を継いだ武田勝頼も遠江支配強化のために高天神城を狙い、遠江支配の要として武田氏と徳川氏は高天神城を奪い合うこととなる。

第一次高天神城の戦い編集

第一次高天神城の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日1574年5月
場所高天神城
結果:開城
交戦勢力
武田勝頼  徳川家康 
指導者・指揮官
武田勝頼 小笠原信興
戦力
25,000 籠城軍1,000
徳川軍約10,000
損害
- -

開戦に至るまで編集

元亀4年/天正元年(1573年)4月12日、武田信玄は「西上作戦」から三州街道を甲府へ帰陣する途中、信濃伊那郡駒場で死去する。信玄の死は秘匿され、子息の武田勝頼が武田氏を継いだ。ところが、武田氏が体制を整える間に、織田信長は反撃に移行。同年7月18日に降伏した将軍・足利義昭を放逐すると、朝廷へは改元を働きかけ天正元年とした。同年8月には越前の朝倉義景と近江の浅井長政(信長の義弟)を相次いで滅ぼした。

織田氏と同盟関係にある徳川家康も信玄の死を機に反撃に転じ、長篠城の奪回や、武田方の作手亀山城奥平貞能を寝返らせるなど三河における失地回復を進めていた。

経過編集

天正元年(1573年)、高天神城攻略の足掛かりとして、武田勝頼は馬場信房を遠江に派遣し、諏訪原に築城を始めた。これを徳川氏は黙認するしかなかった。

天正2年(1574年)5月、武田氏は2万5000人を動員し、小山城を経由し、遠州東部における徳川方の拠点である高天神城に攻めかかった。城方は徳川軍の小笠原長忠以下1,000である。

長忠は武田軍襲来と同時に家康に救援を求めた。しかし、信州から南下する恐れのある武田の別働軍に備えねばならぬ上に、家康軍の総兵力は1万程度に過ぎず、そこで家康は織田信長に救援を要請する。

信長は5月5日から賀茂祭に出席していたが、領国に課税のことを命じると[2]、5月16日に京都を出立し[3]。5月28日に岐阜に帰還した[4]

この間に高天神城は、武田軍による攻撃で西の丸を失陥し、兵糧が窮乏して落城の危機に陥っていた。

6月14日、ようやく信長の援軍が岐阜を出陣し、17日に三河の吉田城に到着した。だが翌18日、城内で高天神城を本拠とする国衆・小笠原氏助(信興)が武田勝頼に内通して反乱を起こし[5]、長忠は持ちこたえられずに降伏した。

こうして、高天神城は武田軍に攻略された。

ただしここまで述べられた、『信長公記』で小笠原氏助・小笠原長忠とされる人物は小笠原信興という同一人物であり、これにより経過の記述などにも混乱が見られる。

実際は守将である信興がその他の将と共に籠城したが、5月以降の再三の援軍要請も主君の家康には全く応える気配がないまま約60日籠城し、しかし武田方の力攻めに郭を次々と落とされ本間氏清や丸尾義清が討死。城は主郭のみとなり、城兵の生命と引き換えに開城した、という経過である。開城後に武田勝頼は寛大な処置を行った。誰一人処分することなく将兵は全て助命し、その身柄を拘束することもなく、武田方に降伏を希望した渡辺信重伊達宗春松下範久らの将は配下に加え、徳川に帰還を希望した大須賀康高渥美勝吉坂部広勝久世広宣らの将はそのまま退去を許した。武田氏の配下に降った将には、姉川の戦いで活躍した「姉川七本槍」のような有名者が含まれており、彼らに徳川家が見限られた様子が窺える。小笠原信興もまた徳川を見限り武田氏に降り、駿河東部に移封されている。

19日、信長の元に城陥落の報が入り、浜松から家康がやってきて礼を述べた。信長は家康に兵糧代として黄金を贈り(2人がかりでようやく持ち上げられる程の量の黄金を詰めた革の袋を2個分、馬に載せて贈ったという)、21日に岐阜に帰還した[6]。これを、援軍を出せなかった詫び料だとする見解がある。

浜松に帰還した大須賀康高は即座に馬伏塚城に配属され、対高天神城の最前線として睨み合う形となった。康高の下には渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らの同じく帰還組が与力として配属され、彼ら与力はのちに築いた横須賀城に由来する「横須賀衆」「横須賀七人衆」と呼ばれた。

武田氏は落城した城を修築すると同時に、旧今川家臣である岡部元信を城将に据えた。

影響編集

高天神城は、かつて武田信玄が大軍を率いてもってしても落とせなかった要塞であった。甲陽軍鑑によれば武田勝頼はこの時から有頂天になって、家臣の言う事を聞かなくなったという。この事からこの城を落とした実績から勝頼は自信過剰になり、後の長篠の戦いでの敗戦の原因になったとする巷談がある。その一方で、勝頼は偉大なる父が落とせなかった城を落とすことで、父に勝る武略を示したいという意図があり、結果的にそれに成功した事から、その実績をもって家臣統制を強めたという解釈もある。

第二次高天神城の戦い編集

第二次高天神城の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日1581年
場所:高天神城
結果:徳川軍の勝利
交戦勢力
武田勝頼  徳川家康 
指導者・指揮官
岡部元信 
横田尹松
江馬信盛
孕石元泰など
徳川家康
戦力
300-600以上 5,000
損害
岡部元信 討死、壊滅(戦死688以上) -

天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍の前に大敗を喫した。これ以降、二俣城犬居城などにおいて徳川方の反攻が始まった。

1575年8月、高天神城への重要な補給路であった今福友清諏訪原城が徳川の手に落ち、名目上の城主に今川氏真を据えた徳川は武田の大井川沿いの補給路を封じた。氏真は高天神城の守将である岡部元信の旧主君である。

さらに翌9月には狩野景信大熊朝秀らの守る小山城を攻めた。これを武田勝頼が援軍20000(1万3000とも)で救援したため、徳川勢は小山城を落とすことはできなかった。諏訪原城を奪われた勝頼は、1576年3月に小山城と高天神城の間に相良城を築き、補給路を維持しようとした。一方徳川勢も周辺の城を攻略しようと試み、「高天神城の補給路」を巡る争いが続いた。

徳川勢は大須賀康高馬伏塚城に配し、先の高天神落城を経験した渥美勝吉坂部広勝久世広宣らを「横須賀衆」として大須賀氏の与力として加えた。さらに康高に命じて1578年に新規に築城した横須賀城を拠点に、武田氏による高天神城への数度の輸送の試みを妨害した。徳川勢は城下の田畑に対して複数回にわたって焼き討ちを行い、補給の失敗もあるため、城の備蓄は益々乏しくなっていったと推測される。また小山城にも度々攻撃を加えることで、高天神城への補給を困難にさせた。武田方も横須賀城に攻撃を加えたりして補給路の確保に努めたが、大須賀康高と横須賀衆がこれを自由にはさせなかった。武田方にとって高天神城の維持はその象徴的な効果の裏で、補給線の長さから負担の大きなものともなっていた。

天正8年(1580年)8月迄には「高天神六砦」と呼ばれる小笠山砦能ヶ坂砦火ヶ峰砦獅子ヶ鼻砦中村砦三井山砦が完成し、高天神城への補給路が断たれた。

同年10月[7]、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。家康は力攻めではなく、城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを行った。

当時の城将は今川旧臣の岡部元信だったが、武田勝頼は城方の苦境に対し援軍を送ることができなかった。勝頼が高天神城を救援できなかった事情について、織田側の史料では『信長公記』は、勝頼は信長の武勇を恐れたためとしている[8]。一方、武田側では事情が異なり、まず勝頼は天正6年(1578年)3月の越後国における御館の乱後に上杉景勝甲越同盟を結んだため、後北条氏との甲相同盟が破綻し、駿河において北条氏政の攻勢を受けていた点が指摘される[9]。北条氏政は織田・徳川氏と同盟を結び、家康は駿河西部における攻勢を強めていた[10]。また、勝頼は信長の五男で武田家に人質として滞在していた織田信房(源三郎勝長)を天正8年3月に織田方に返還し、信房を介した信長との和睦を試みていた(甲江和与)。このため勝頼は、高天神城に救援を送ることが織田方との和睦交渉に影響することを懸念していたとも考えられている[11]。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼は高天神城救援の意志を持っていたが、信長を刺激することを恐れた一門の武田信豊・側近の跡部勝資が反対したとする逸話を記しているが、これは確実な史料からは確認されていない[12]

天正9年(1581年)1月3日、織田に勝頼出陣の噂が届き、これに備えるべく織田信忠清洲城に入った[13]。しかし勝頼が出陣した形跡はなく、これは虚報だったようである[14]

信長はこの城攻めにあたり、家康に対して「高天神城の降伏を許さないように」という書状を送っている[15]。信長は(前回とは逆に)勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようである。また、書状の中で信長は「武田四郎分際ては、重(かさねて)も後巻成間敷(うしろまきなるまじく)候哉」と、勝頼はとうてい救援に来られないだろうと読んでいたようである。天正8年12月に信長は福富秀勝猪子高就長谷川秀一西尾吉次からなる自身の側近衆を高天神城攻囲中の家康の陣に派遣して陣所を視察させ、戦略の詰めの調整をさせている。

この包囲によって城兵が多く餓死。3月25日午後10時頃、江馬信盛ら生存の城兵によるささやかな宴席を設けた武田軍は、岡部に率いられて城から討って出、最も手薄と見られた石川康通の陣に向かい突撃を敢行するが、大久保忠世・大須賀康高ら徳川軍はこれに応戦し、激戦ではあったものの衆寡敵せず、岡部元信と兵688は討ち取られ(『信長公記』)、本多忠勝鳥居元忠戸田康長らが城内に突入して掃討戦を行い、城は陥落した。

なお、軍監として籠城していた横田尹松は脱出に成功し、高天神落城を報告している。孕石元泰も脱出したが、翌日に捕縛され処刑された。

落城後に、7年前に開城を潔しとせず、以降城内の土牢に監禁されていた大河内政局が救い出された、という話が残る。

影響編集

この戦いが武田氏の威信を致命的に失墜させた戦いである、とする見解がある。前回の落城とは全く逆に、勝頼は岡部元信の救援要請に応じることができず、結果として岡部以下の多くの将兵を見殺しにした。ただし、城将の岡部元信から小者に至るまで連名してまでの援軍の派遣要請に対し、同じく籠城していた横田尹松は勝頼に対し「(兵力の温存のためにも、武田の負担となっていた)高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出している。

翌年における織田信長の武田攻めの際、御一門衆である木曾義昌穴山信君、譜代家老の小山田信茂の造反の一因になったとする見解がある[16]。『信長公記』ではそのあたりが強調され記述されるが、籠城側の降伏を拒否するよう信長が家康に指示した内容の書簡が残っている。このことから、籠城側が既に早い時点で降伏の意思を家康に伝えていたにも関わらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、「援軍の出せない勝頼」を宣伝し、勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないかとの指摘がある。前回の高天神城落城(第一次)の際に援軍が送れずに見捨てる形となり、声望を著しく低下させたのは徳川家康であり、そして信長その人である。

注釈編集

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  1. ^ 近年の研究では、元亀2年の三河・遠江侵攻は天正3年の出来事で、実際には無かった可能性が指摘されている。詳細は西上作戦#研究史を参照のこと。
  2. ^ 信長公記 巻7
  3. ^ 多聞院日記、年代記抄節
  4. ^ 信長公記 巻7
  5. ^ 信長公記
  6. ^ 信長公記
  7. ^ 『家忠日記』より。『信長公記』には日付がなく、この直前の項の日付が11月17日、次の項が翌年の元旦である。
  8. ^ 平山(2015)、p.12
  9. ^ 平山(2015)、pp.10 - 12
  10. ^ 平山(2015)、p.11
  11. ^ 平山(2015)、p.13
  12. ^ 平山(2015)、p.13
  13. ^ 『信長公記』
  14. ^ その後、信忠は2月19日に上洛し、妙覚寺に宿泊している。(『信長公記』)
  15. ^ 『増訂 織田信長文書の研究』
  16. ^ 木曾義昌・穴山信君は信玄の娘婿(ともに勝頼の義兄弟)にあたる。小山田信茂は信玄の従弟(勝頼の祖父・武田信虎の妹が母)にあたるが、『甲陽軍鑑』では御一門衆ではなく譜代家老衆に含まれる

参考文献編集

  • 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年

関連項目編集

外部リンク編集