外山 光輔(とやま みつすけ[1]/みつつね[2])は、幕末公家外山家8代当主。

経歴編集

山城国京都勘解由次官・外山光親の二男として誕生[1][3]嘉永5年3月12日1852年4月30日)に元服し昇殿を許され、宮内大輔に任じられた[1][4]

明治3年4月1870年5月)東京皇居内番参勤となるが、同年7月に辞任し京都に戻った[3]。その後、国事への参画を願うも実現せず、また、王政復古後の物価の騰貴、政府高官の洋風化などに反発し、愛宕通旭と提携して政権の刷新を画策し同志を募った[1][3]。明治4年3月6日(1871年4月25日)京都で挙兵の密議を行ったことが発覚し、翌7日に同志21名と共に捕縛された[3]二卿事件)。同年12月3日に自尽を命ぜられた[1][3]

系譜編集

脚注編集

  1. ^ a b c d e f 『明治維新人名辞典』678頁。
  2. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、202頁。
  3. ^ a b c d e 『明治時代史大辞典 第二巻』892頁。
  4. ^ 『外山家譜』

参考文献編集

  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第二巻』吉川弘文館、2012年。
  • 『外山家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。

関連項目編集