英俊

戦国時代の僧侶
多聞院英俊から転送)

英俊(えいしゅん、永正15年(1518年) - 文禄5年(1596年))は、戦国時代の僧侶。興福寺多聞院主。号は長実房。多聞院英俊と呼ばれることが多い。

生涯 編集

永正15年(1518年)に大和国豪族興福寺大乗院方坊人の十市氏の一族として、父・盛眼、母・某の間に生まれた。享禄元年(1528年)に11歳の時に興福寺妙徳院へ入ると、天文2年(1533年)には妙徳院長蓮房英繁を師として得度し、長実房の号を称した。天文3年(1534年)に没した母の忌中に病にかかり、赤童子に救われた夢を見て一生を修学に捧げる決心をした。その後、学問を修めて多聞院主となり、法印権大僧都に昇進。大乗院門主の尋憲の後見となる。

英俊は発心院祐算のもとで唯識の研鑽を積み、大乗院尋円・尋憲の御同学となっている。尋円・尋憲が対立した時にはその関係修復に奔走した。晩年、一乗院尊政からも師匠として尊敬され、英俊のもとにあった書籍が一乗院へ譲られている。

戦国時代の事件や畿内要人の動向・噂などを記録した『多聞院日記』は英俊よりも前の応仁の乱の時代から作成されていたが、英俊もこれを受け継ぎ、天文3年(1534年)から死の直前の文禄5年(1596年)に至るまでの60年間以上もの間を執筆したため、同書の主著者といえる。慶長4年(1599年)の日記の登場人物は英俊時代のものと変わらないので、英俊の弟子が多聞院で書いたことは間違いない。混在する文明年間(1469年 - 1487年)・永正年間(1504年 - 1521年)の日記は、恐らく英俊が借覧筆記したものであろう。同書は戦国時代の時流を知る上での基礎史料となっている。徳川光圀前田綱紀の修史事業、江戸幕府書物方・下田師古による抜書で世に知られたが、原本は失われてしまった。大乗院記録所による近世中期の写本が明治維新の波をかいくぐり、現在の公刊史料の底本となっている。

文禄5年(1596年)正月に死去した。

日本初の猫の戒名 編集

英俊はが大好きだったようで、英俊の日記には多くの猫や犬が登場する。猫が子どもを産んだと聞くと喜び、犬が鉄砲で撃たれたと聞くと悲しみ、日記に「不憫だ」と書き記すほどであった[1]

ある時、そんな英俊の愛猫が亡くなってしまった。その悲しみは深く、英俊は日記に「うちの子が死んだ。不憫、不憫。『妙雲禅尼』と名付けた。今でも信じられない」と書いた。なんと英俊は、亡くなった愛猫が成仏できるように戒名を付けてあげたのだった。猫の名前は不明であるが、『妙雲禅尼』とあることから雌猫だったことはわかる。おそらくこれは日本史上、もっとも早い猫の戒名である[2]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

外部リンク 編集