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学校院跡

大宰府学校院跡(だざいふがっこういんあと)は、福岡県太宰府市大字観世音寺に所在する大宰府の官人養成機関に関する遺跡である。1970年昭和45年)に、国の史跡に指定されている。

概要編集

大宰府学校院は、中央の大学・典薬の両寮、地方の国学に相当するものである。その成立時期は明らかではないが[1]律令制度の整備が進むにつれて、学校に相当する機関が設立されたと考えられている。

天応元年(781年)3月の太政官符に「府学校に六国[2]の学生・医生・算生[3]は二百余人あり」と見えるのが文献上の初見史料である。

発掘調査編集

1969年昭和44年)から、大宰府史跡調査の一環として発掘調査が行われた。学校院の中央部から掘立柱建物4軒が検出された。そのうち2軒は2間×3間の総柱で倉庫風の建物、他の2軒のうち1軒は4間×7間の南北に庇を持つ建物と推定されており、中心的建物と考えられている。この建物の時期は平安時代前半と推測されている。学校院の東辺部からは掘っ立て柱建物7軒、南北溝、築地状遺構などが検出されている。建物は3回建て替えられ、奈良時代の後半頃の建物が一番古い。南北溝は、平安時代から室町時代にかけて存続しており、築地状遺構も平安時代前半頃の築造と考えられており、学校院の東を区切る[4]ものであったと推測されている。学校院の全体の発掘調査は今後の課題である。

脚注編集

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  1. ^ 存続についても明らかではないが、11世紀代までは続いたと推定されている。
  2. ^ 大宰府管内の九国三島のうち筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・のことであろう。これら六国以外は教官(大宰府では明経(みょうきょう)博士が専任、音博士・明法博士、太宰医師、太宰算師など)を派遣したようである。
  3. ^ 大宰府では学生・医生・算生の三者を同一機関で学ばせていたようであるが、中央では学生・算生を大学寮で、医生は典薬寮で教育した。また、地方では学生・医生のみが教育を受けた。
  4. ^ 観世音寺との境界か。

参考文献編集

  • 磯村幸雄「大宰府学校院跡」『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』文化庁文化財保護部史跡研究会監修、同朋舎出版、1991年。ISBN 978-4-8104-0927-7

関連項目編集

外部リンク編集